錆鉄人の家族でチャレンジ
2006.3.30 更新
家族がエネルギーの源だ

2006年以降はこちらです

結婚してすぐに子供が出来た。
子供好きの自分にとって楽しい毎日だった。
子供とおんなじレベルで遊べるという特技を持っているので
(つまり、おつむが子供とおんなじということであるが)
たいていの子供とはすぐに仲良くなれる。

我が家の娘達が小学生になる頃までは
自分の身体が遊園地そのものだった。
ぶら下がる・よじ登る・手をつないで回転する
テレビを寝ころばって見ている上に子供達が腰かけて来ると
地震だと揺らして落っことした。
ジャンピング(*1)・ポリアンナ遊び(*2)
など我が家独自の遊びも開発した。
さらには我々夫婦独自の「良かった捜し」も生まれた。
・・・・・

遊ぶだけではなく、この大切な子供たちを立派な人間に育てたいと思った。
女の子でも一人で自立出来る人間に育てたいと考えた。
そのためには、いろいろな経験をさせて「自分に自信を持たせる」ことだと思った。


*1;ジャンピング
子供と両手をつないでその場でジャンプをさせます。
ジャンプを繰り返しながらジャンプをする時に少しずつ上に引き上げてやります。
子供がコツを覚えると頭の上まで飛び上がります。
幼稚園の参観日にはジャンピングをして欲しい園児の長い列が出来ました。

*2;ポリアンナ遊び
長女が幼稚園の頃テレビで放映していたポリアンナ物語。
番組の冒頭(歌の部分)で、お母さんに会えたポリアンナが
うれしそうに手を振りながら走って行ってお母さんに抱き付くと
お母さんはポリアンナを抱いてグルグルと回ります。
これをそっくり真似たものがポリアンナ遊びでした。
遠くから2人の子供が順番に手を上げてうれしそうに走ってきます。
何回かに1回はフェイントを入れて抱きつく瞬間に身をかわして大笑い
走ってくる子供の顔が輝いていました。


(最終更新 2004.7.27)
(1)宝物の誕生(1981年9月、1983年5月)
私達たち夫婦の宝物「娘達」の誕生。
この頃から、学校でのいじめ問題がマスコミを賑わしていた。それで、自分は「大事な娘をいじめのある学校なんかにはやらない!」と思っていたのでした。
しかし、それでは友達も出来ないし、協調性のない子になってしまう、という周囲の声にシブシブ従うしかありませんでした。

【私達の子育ての基本方針
(1)他人に迷惑をかけない
(2)思いやりのあるやさしい子
(3)「女の子だから」とは考えない
(4)子供の可能性を伸ばす
(5)自分自身にプライドを持つ
(6)子どもが自慢出来る親である事

お姉さん気分でご機嫌な長女と
不安げな次女
(2)2才の誕生日前に歩いて乗鞍岳に登頂!(1983年8月)
暗いうちに家を出発したが、乗鞍有料道路は車がいっぱいで、畳平の駐車場のはるか下の駐車場に車(セリカとカローラセダン)を停めた。
「ヨイチョ、ヨイチョ・・・。」片言しか話せない1才10ヶ月の子供が頂上を目指して歩いた。そして登頂!
下りはさすがに危険なので、ベビーキャリアで担いで降りたが、小さな子供が処理出来ない経験をした為であろうか、帰りの車の中では大声で泣き続けて困らせた。
 

こんなちっちゃな足で登った!
(3)学校が好きな子に育てる為に(1984年〜)
勉強は出来なくてもしかたがないが、せめて学校が好きな子供にしたい。そのために考えたのが、学校の遊具で遊ばせて学校が好きな子にしようという事であった。
毎週のように小学校へ行って、子供と一緒にブランコ・滑り台・ジャングルジム・棒登り・タイヤ跳び・虹の山登り等を繰り返した。休日に「どこかへ連れて行って。」と言われて「今日は忙しいから。」と言うと「学校でいいから連れて行って!」という程であった。自分のズボンのおしりの部分が滑り台の摩擦で擦り切れた。

【後日談】
こうして、学校は「遊ぶ所・楽しい所」という認識ではあったが、願い通り学校の好きな子になった。学校が好きだから、勉強も少なくとも嫌いではなかったのだろう。2人とも小中学校を通して成績はいつも優秀で、夫婦そろって参観日に出かけるのが習慣の我々にとっても、学校は楽しみな所であった。
 

小学校の「虹の山」
これで山登りの基礎が身についたのかも?
(4)取立山登山(1985年5月)
我々夫婦の思い出の山(結婚前に二人で登りました)「取立山」へ家族で行こうと考えました。
でも出発が遅くなり、谷峠の駐車場に車を停めたのは登頂にはかなり遅くなっていました。
まだ2歳になる直前の優美ちゃんに、長女は「ヨーイチョッ、ヨーイチョッ」と声を掛けて励ましていました。
谷峠の登りは結構きつくて、短い足では大変でした。林道に出た所で取立山まではとても無理だろうと考え、弁当を広げて食べ、そして車に戻りました。
これが優美ちゃんの最初の登山でした。
 

おむつが取れない2歳前では
ここまでが限界だった。
(5)幼稚園から家まで歩いて帰られるように(1985年10月)
長女が4歳となり、来年春からはスクールバスで3.5km離れた幼稚園へ。グズグズしていて用意するが遅い子なので、帰りのスクールバスに乗り遅れても、家まで歩いて帰られる自信を持たせようと、幼稚園まで一緒に歩いてみることにしました。
下の娘(2歳)も一緒に、かけっこをしてみたり、トンボを追いかけたりして遊びながら、幼稚園の横の文化祭をやっている会場まで出かけました。ポップコーンが当たる券やミニ蒸気機関車の乗車券を握り締めて。
帰りはお母さんに迎えに来てもらうことにしていましたが、車があるのに歩いて行くなんて、この頃から「変なお父さん」だったようです。
 

家から約2.5km地点、学校までは残り約1km
楽しくカケッコをしているところ
(6)霧雨の立山(1986年8月)
「目標に向かって一生懸命頑張れる粘り強い子になって欲しい」と考えていたので、お盆休みには毎年山登りをしようと思いましたが、山登りといっても子供にはピンと来ません。続けるには楽しい思い出が一番と考え、ケーブルカーや登山バスに乗って3,000mの世界に一気に行ける立山に出かけました。
あいにくの天気で室堂は強風の霧雨でした。長女は自分が連れて頂上まで登りましたが、妻と二女は三の越辺りで断念。
帰りの登山バスでは、カーブを曲がるたびに大げさに身体をゆらして次女とチューをして遊びました。天気は悪かったけれど、いろいろと楽しい思い出の立山でした。
 

目も開けていられない程の霧雨だった。
(7)キャンプで釣った西穂高岳独標(1988年8月)
楽しい思い出が残る登山という事で、東洋一の新穂高ロープウェーに乗り、3〜4時間歩いて西穂の独標に登り、戻ってから露天風呂付きのキャンプ場で1泊する案を考えました。
この作戦は見事にはまって、その後数年は好天にも恵まれ、お盆休みは家族での山登りが続いたのでした。
 

独標まで子供達は一人でさっさと登った。
山登りはお母さんが一番下手でした。
(8)ピアノのレッスン(1989年5月〜)
近所で日曜日に講師が来てピアノのレッスンをしてくださるところがありました。近所の子が習いに行っている事もあって、娘達がピアノを習いたいと言ってきました。
習ってもいいけど「絶対に途中でやめない」と約束をさせて習い始めました。

    初めてのピアノ発表会
小学校卒業でレッスンはやめましたが、最後のレッスンが終わった後、よく頑張って続けたねと言ったら涙が出ました。 

演奏を終えた後の
2人の上気した顔が印象的でした。
こんな事を繰り返し体験することで
人前で振る舞う能力がついてくるのでしょう。
2人共、小学校を終わるまで続けました。
発表会にはおしゃれをさせて
我々にとっても楽しみなひと時でした。
(9)子供だから日本一の富士山は登りたい山(1989年)
子供達にとっても、山登りが苦しいことは前年の西穂独標でよく解っていたはずです。でも、「日本一の富士山!」に瞳が輝きました。
子供にとって、日本一の富士山は自分も友達も知っている「特別の山」だったのです。
遠い山へ行く為には車の中で寝る必要があると考え、ワンボックスカー(ボンゴ)を購入、自宅を午後7時頃に出発しました。
午前2時から登り出して、登山道の途中から見た流れ星は、今も子供達の脳裏に焼き付いています。
徹夜の登山に疲れて、下山途中の8合目付近で眠りだした二女をおぶって車まで走り下って、もう一度6合目まで迎えに戻ったら、「お父さんのほうがもっと弱っているんやで、私はだんね」と言った娘の言葉に涙がこぼれました。実際、体力の限界で、車に戻ったらすぐに目がふさがってしまいました。
翌日は早朝から白糸の滝を観光し、甲府へ行ってぶどう狩り、美術館でミレーの落穂拾い鑑賞などをして帰宅しました。
 

金剛杖に記念の焼印を押すのも楽しみでした
お母さんは8合目でダウン!
でも2時間後に登ってきました。
(10)大雪渓の白馬岳日帰り登山と善光寺参り(1990年)
「夏でもすごい雪が残っていて、その大雪渓の上を歩いて登山するんだよ。」・・・で白馬岳に決まり。
夜中の国道148号線は、いねむり運転寸前の連続でしたが、猿倉に駐車して2時間程仮眠。
早朝から白馬岳に登りだして、夕方には下山。途中、葱平では前夜の大雨によって川を渡る必要があり、この部分だけはおんぶして渡りました。
下山後は、そのまま長野市まで走って車内泊。翌日早朝、善光寺にお参りしてみんなで胎内めぐりをして「極楽への鍵」にさわってきました。さらに上越市へ行き、妻の大学時代の恩人・友人を訪問し、思い出めぐりをして帰宅しました。
 

雪渓歩きも楽しかった思い出です。
子どもはこけなかったけれど
お父さんがこけました。
(11)結婚10周年に親子でホノルルマラソンを走ろう(1990年)
数年前に体力の衰えに気づいて始めたジョギングでしたが、どうせやるなら勉強しようと定期購読を始めた雑誌(ランナーズ)に、小学生の親子がホノルルマラソンを完走した記事があったことを思い出して、結婚10周年の記念に親子でホノルルマラソン出場を提案。
数十階建てのプール付きホテルと大きなベットの写真に、子供は一発でOK。「にっこり笑ってゴール」する為に充分練習して翌年にチャレンジすることになりました。
練習は3月、春休みになってから開始しました。最初は1km走って歩いて帰ってきましたが、少しずつ距離を延ばし、5月3日に金沢の「マラソンに挑戦する会」に参加。氷雨の中、子供達は10km、妻は20km、錆鉄人は初フルを完走。
余りの寒さの中を長時間走った為に腕の痛みが1ヶ月程続きましたが、その間ずっと横になると「フルマラソンを完走したんだ」という満足感に満たされあした。

 

91年5月3日「マラソンに挑戦する会」
完走賞の大きなトロフィーに喜ぶ子供達
(12)スイミングスクールに入学(1990年)
自慢ではないが、錆鉄人は水泳が苦手です。カナヅチではないが効率よく前に進みません。山登りが趣味であり、何処へ行っても混雑ばかりの海水浴は嫌いでしたが、子どもはやはり水遊びが好きであり、海水浴にも連れて行かざるを得ませんでした。
小学校の同級生でスイミングスクールに通う子がいて、「私も習いたい」と言って来ました。これも「絶対にやめない。絶対に休まない。」の約束で始めました。
週に2回スイミングスクールのバスで練習に通い、学校へ戻って来る所をお母さんが迎えに行きました。子供たちは皆勤賞の小さな盾を目指して休まずにスクールに通いました。(休んだ場合でも補習を違う日に受けることが出来たので皆勤賞を何回も取りました。)
 

レッスンの最初は顔付けでした。
顔を上げると手で何度も顔をふくしぐさが
とても可愛かった。
(13)高山病に泣きながら・・・槍ヶ岳〜南岳(1991年)
恒例となったお盆の登山は、ホノルルマラソンの練習も兼ねて新穂高から槍ヶ岳へ決定。
新穂高から槍平を通って槍ヶ岳山荘に素泊まりでチェックインした後、槍のテッペンへ。登るには登れたが、妻も子供も1人では降りられません。自分は下の娘の先に降りて指示しながら降ろし、他の2人は頂上にいた清水市の人達が一緒に降りて下さいました。
翌日は大喰岳・中岳・南岳と縦走し南岳避難道から下りる「天国の散歩道計画」で出発しましたが、頭が痛いと言っていた二女が中岳の辺りで泣き始めました。高山病でした。かわいそうですが4人分の大きなザックをかついだ自分にはどうしてもやれません。一緒に涙を流しながら二時間程歩いて、南岳避難路を標高差で数百メートル下りたら、高山病はけろっと治りました。
どうしてもキャンプしたいという娘達は、槍平から後は走って車まで戻り、また露天風呂付きの中尾キャンプ場でキャンプをして、露天風呂に入りました。
 

大喰岳からの槍ヶ岳
この辺りでは優美ちゃんも元気でしたが・・・
(14)いつのまにかマラソンで学年1位に(1991年)
ホノルルマラソンを完走する為に始めたマラソン練習。最初は家から1kmを走って歩いて戻ってきたのでしたが、徐々に長い距離を走る練習をしていたら、2人共1年前は学年で下位だったのに、長女は春のマラソン大会で新記録で学年で2位に、秋には長女はさらに記録を伸ばして学年で1位に、二女も学年で1位となりました。
「子供の能力と可能性は際限がない」と思いました。そして、それは大人の自分達にもあるのではないかと考えるようになったのでした。
 

武生菊花マラソンファミリー4年の部
女子では1位だった。
(15)ゆみちゃんの分もがんばる!ホノルルマラソン(1991年)
10ヶ月に及ぶ苦しい(楽しい)練習をし、完走の自信満々だったのに・・・ゆみちゃん(二女)が風邪をひいてしまい、ホノルルへ行ってからも悪くなる一方で、遂にドクターストップ
何時間かかっても一緒に歩いてゴールしようと出発地点に行ってはみたが・・・。
ゆみちゃんは立っているのがやっとなので、スタート後一緒にホテルまで5km程を歩いて戻り、そこから走り出しました。5分も走らないうちに、トップがダイヤモンドヘッドの坂を駆け下りてきました。その先がゴールのカピオラニ公園でした。立ち止まって拍手をして反対側に走り始めました。ほとんど2時間遅れでスタートしたようなものでしたが、メグは頑張って大勢のランナーを抜いて、最後は足が攣って痛かったのですが、走って感動のゴールをしました。
(旅行費用;約120万円)

ほとんどの人は歩いていましたが
メグは頑張って走り続けました!
(16)ゆみちゃんもフルマラソン完走(1992年)
10ヶ月に及ぶ苦しい練習をし、完走の自信満々だったのに・・・ゆみちゃんは風邪をひいてホノルルマラソンの完走が出来ませんでした。
折角練習したのだから、ゆみちゃんにもマラソン完走の感激を味あわせようと、翌年5月3日金沢の「マラソンに挑戦する会」で、リベンジする事にしました。制限時間6時間は苦しいと思い、主催者にお願いして30分早くスタートさせてもらって、見事ゆみちゃんもフルマラソンを完走しました。(長女は2度目のフル完走でした。)

       この時まだ8歳であった。
         (誕生日前なので)

(12:52 残り192m!)

もうホノルルマラソン挑戦時のテンションはなく、
春休みに少し練習をしただけでした。
しかし、小学3年生でもプライドはあります。
計画は20kmまでは絶対に歩かない、
後は歩きと走りを繰り返しても
ゴール出来る計算でした。
30kmを過ぎて足が攣っても
ゴールへ向かう意欲は薄れませんでした。
そして、ゆみちゃんも
フルマラソン完走!
(17)スイミングスクールでがんばる(1992年)
マラソン練習で心肺機能が高まったのか、幼稚園から続けていたスイミングスクールの記録が大幅に向上し、2人とも選手育成コースに選ばれて、週4日も頑張って練習を続ける事になりました。
おかげでさらに記録も向上し、校内の水泳大会では勿論、町内の小学校連合水泳大会でも1位に。(長女は校内水泳大会では新記録確実でしたが、直前にプールでこけて怪我をしたので出場出来ませんでした。こういうおっちょこちょいな所は我が家の家系かもしれません。)

合同記録回にて
(18)年末年始で九州旅行(1992年)
「今やりたいことは来年では出来ない、大掃除などいつでも出来る。」と言って、年末年始で家族旅行も計画し、何度か実行しました。
しかし子供達も大きくなったので、今までのようにボンゴをフルフラットにした所に、親子4人は寝られません。二段ベットを自分で作って出発しました。(その上で寝た妻は、天井が近いので気になって寝られなかったと言っていましたが、その実よく眠っていました。)
その日(12月30日)の午後から運良く解禁になった阿蘇山頂上まで車で行って、雄大な噴火口を見学。その日のうちに福岡市まで戻って、1日で千数百kmを走るという大記録をうち立てました。翌日はハウステンボスで1日遊び、ホテルに宿泊。お正月になって長崎市内を見物し、太宰府天満宮に初詣して「頭が良くなるように」お祈りして帰りました。

大宰府天満宮に初詣
梅ヶ枝餅も食べました。
(19)私はマラソンと山登りはもうしない(1993年)
突然、長女は言いました。
「私はマラソンと山登りはもう絶対しない。」
小学校の6年生でした。
反抗期になったのでしょうか。自我の目覚めと歓迎すべきなのでしょうが、一緒にいろいろな想い出を創ってきて、これからも創っていきたいと思っていたのに・・・
(無理もない、苦しいマラソンと普通の大人でも滅多にしない強行軍の登山ばっかりでしたから・・・)
(20)クラブは陸上・・・自分の努力が素直に成果になる(1994年)
中学校へ入る前、クラブを何にするか長女が迷っていました。決断はまかせたけれど、「チーム競技は自分がいくら一生懸命努力しても駄目な場合があるし、逆に自分のミスでみんなに迷惑をかけてしまう場合もある。自分が頑張っただけ記録の向上になって現れる陸上は良いと思うよ。」とアドバイスしました。娘はいろいろと考えて、マラソンはしないけど陸上にすると言いました。
そして3年間ハードルをやりました。ご褒美に1回だけ県の大会で1位になれました。
二女も陸上部に入って、幅跳びを3年間続けました。1位になる事はなかったけれど、良い友達がたくさんできて良かったと思います。

勇敢な長女に合っていたのだろうか
結構きれいなハードリングでした
     学校よりも、お父さんとお母さんの挑戦を見るほうが大事だ!
(21)サロマ湖100kmウルトラマラソンチャレンジ
(1994年6月)
会社を変わって単身赴任していたら、妻が原因不明の激しい肩こりに。もう妻の生きがいであるマラソンも出来なくなるのでは・・・との思いから、最後の想い出にと「サロマ湖100kmウルトラマラソン」に一緒に出る事を決めましたが・・・
中学生になった長女は、学校を二日休む事で授業に付いていけなくなることを心配していましたが、「お父さんやお母さんが死ぬ気で走るのを見る方が、勉強より大事だ。」と言い切って北海道へ。大会の前日はレンタカーを借りて網走や摩周湖などを見学、牧場で初めて乗馬も体験しました。
大会ではアクシデントで25kmで足が痛み出しましたが、絶対にゴールしたいと必死で走り続けました。そして思いました。「走るという行為は自分の意志で足を前に出しているのであるから、自分が走る事を諦めない限り走り続けられるはずだ。」激痛の中を走り続けて、妻と一緒に感動のゴール
その後のマラソン大会では簡単に歩いてしまうのは、やはり根性が足りないのでしょうか?
(旅行費用;約60万円)

摩周湖は霧はなかったが
途中で自然の鹿にも出会いました。
(22)はるかな尾瀬なら・・・行ってもいいよ(1994年7月30日)
「もう山登りは絶対しない」と断言した上の娘を、一緒に山に連れていくにはこれしかありません。
尾瀬の写真を見せ、見渡す限りのニッコウキスゲを見に行こうと誘ったら、「尾瀬なら行ってもいいよ。」
仕事を終わってから出発しましたが、沼田インターを下りてからも遠く、駐車場に着いたのは午前2時を回っていました。
この年は花が早くてニッコウキスゲは既に終わりに近づいていましたが、尾瀬の風景に2人の娘は大満足でした。
長蔵小屋の横のキャンプ場に幕営して、翌日はレンジャーの案内による自然観察会にも参加。帰りには吹き割りの滝へ。裸足で滝の近くまで歩きました。

長蔵小屋の前にて
(23)「上高地は素敵だよ」(1995年8月)
「上高地は山登りはないよ、日本で一番景色のすばらしい所へ行って、その辺りを散歩するだけだよ。」と長女を誘った。それは嘘ではない。
娘達は梓川の清流、上高地の景色に感動してくれました。
河童橋のほとりで絵を描いている人を見物していたら、突風が吹いてキャンバスが吹き飛んでその人に当たり、顔を怪我をして血が流れてきました。一番近くにいたので妻が介抱してあげたら、大変感謝されて絵をプレゼントされました。旭市のWさんでした。

池を泳ぐヤマメが透けて浮かんで見えました
(24)もう一度フルマラソンを走ってヨーロッパ旅行(1995年年末年始)
正月に「ユミチャンが走れなかったから、結婚15周年記念にもう一度ホノルルへ行こう。」と提案しましたが、「どうせ海外旅行に行くなら、違う国に行きたい。」と娘達は言う。
「お父さんはフルマラソンを走る事に意義があると思う。」と主張して、話し合いの末、5月3日にある金沢の「マラソンに挑戦する会」でフルを完走したらヨーロッパへ行く事に決定。練習は少なかったが、「ヨーロッパ」を目指して、娘達は歯を食いしばってフルを完走。
そして、年末年始にヨーロッパへ。(関空発ローマ・パリ・ロンドン8日間の旅。一人348,000円だったか?)
英語を習い始めていた長女は、親が買い物に夢中になっている間(ロンドンのバーバリーの店)店員と英語で会話して通じたのに感激。これ以降、長女の「外国旅行かぶれ」が始まったのではないかと思います。
(総旅行費用;約160万円)

ノートルダム寺院の前で
(25)三重県まで行ってしし座流星雨を見る(1998年11月18日)
33年に1回のしし座流星群の大出現が日本を中心にあるという事で、マスコミを賑わしていました。前回は1966年で、アメリカやヨーロッパでは1時間に15万個の流れ星が観測されたという。予想ではそれに近い流星が飛び交い、正に流星雨の状況と予想されていました。
11月といえば福井はもう冬の季節であり、時雨模様が続き晴れる事はほとんど望めません。そこで余程良い天気予報にでもなれば家で見るが、そうでない限りは表日本のほうへ行って観測しようと考えていました。
前日夜の天気予報は、やはり悲惨なものでした。「一生ものだから、明日帰ったらしし座流星雨を見に表日本のほうへ行くから用意しておいて」と告げたら、妻も子供達もビックリしていました。翌日の夜、車を走らせていると、「変人のお父さんで良かったね。」と言っているのが聞こえました。
流星雨は予想された程の出現はありませんでしたが、次々に現れる流星を楽しみました。
家に戻ったのは午前6時少し前で、1時間程寝ただけで会社に行きました。(往復の道中、妻と子供達は後席をフルフラットにして寝ていました。)
 
        
(26)そして、子供達はそれぞれの道を歩む
娘が中学生の間は、数学の問題が解らないと言って来ても答えを出すことが出来、威張っていられましたが、高校の問題は解き方を忘れています。勉強だけではなく、もう娘達は「自分で解決して行くしかない」のでした。

子供達はいつしか大きくなって、それぞれの道を自分で歩き出し始めました。まだまだ考えは甘いものの、それなりに将来も考えながら自分の道を歩き始めている娘達を見守って行きたい。

大学に関しては、親として「家から半径200km以内の所」と制限を設けました。とはいえ、遠い大学であったとしても、そこしか受からなければ行かせるしかなかったのですが・・・。(結果的には長女は金沢、二女は京都と近い所に収まり、親は新しい巣にせっせと通ってエサを与えるのでした。)
 
        親子のチャレンジの成果

二人の子供達は、私達夫婦の宝であって自慢の種でもあり、今後もそれは変わる事はありません。
子供達にとって「自慢出来る親でありたい」との思いから、今まで私達夫婦は頑張って来られたのだと思います。立派に育った娘達に負けないように、夫婦仲良くこれからも頑張って行きたいと思います。
(27)ネパールに学校を立てるNGOに参加
               
(2000年12月23日〜2001年1月8日)
長女は金沢大学教育学部に入学。
自分の作ったペットボトル太陽熱温水器が朝日新聞の全国紙に紹介された事で、旧交が再開した奈良の坂元さんが主宰している「ネパールに学校を造るNGO」に参加する事を長女に提案。
未開のネパール奥地へ大きなザッグをかついで行き、ゴミが落ちてくる納屋のゴザの上で持っていった寝袋で寝ながら、原住民と交流してきた長女は、一回りも二回りも大きく成長して帰って来ました。

出来上がった学校の前で村の長老と。
娘はもう一度あの村に行きたいと言う。
(28)私は山登りが好き 御嶽山登山(2001年8月3日)
二女も高校3年生、夏休みに入ったが余り受験勉強に熱が入りません。夫婦で御岳山の御来光登山を企画して誘った所、「私は山登りが好き!」と言って一緒に登ることになりました。
御来光を見ようといつものペースで登ろうとする自分にしばらくは着いてきたが、途中で足が攣ってしまいました。それでも御来光には充分に間に合って、頂上からは日の出前の雄大な雲海、壮麗な御来光を見ることが出来ました。

御嶽山頂上で御来光を待つ
(29)ヨーロッパを歩く(2001年8月23日〜2001年9月22日)
中学2年生のヨーロッパ旅行以来、色々な外国に行ってみたいという希望の長女が、ザック1つでヨーロッパ各国を回って歩く計画を立てました。直前に父(娘にとっては祖父)が亡くなりましたが、葬式が済んだ後、親として心配は尽きないけれど「得るものの大きさを信じて」送り出しました。
ほとんど連絡のこない日々が続き、妻は毎日のように夫が寝た夜中に写経しながら無事を祈っていました。
イタリア・ドイツ・・・様々な人の親切を受けて娘は無事に帰って来ました。
世の中、まだまだ捨てたものではなさそうです。
(30)外人のボーイフレンド(2001年12月)
長女は大学では1年生の時から留学生と交流するサークル(KISSと称す)に入っていましたが、2年生では部長的立場になったらしく、いつもサークルで忙しいと言っていました。
12月に外人のボーイフレンドを紹介したいと言って、その友人の外人2人(1人は女性)も連れて来ました。
クバは日本語がペラペラで安心しましたが、それ以上に礼儀正しく誠実な青年で、とても良い家庭で育ったことが感じられました。
自分は、今時の日本人よりよほどしっかりしていて良い青年だと感じましたが、妻はそれ以上で、すっかりクバのファンになってしまいました。そして、成人式にも一緒に連れてくればいいよと言って呼びました。その後もクバは長女が帰宅する時はいつも一緒に来てくれました。

2002.1.12 成人式
(31)二女も大学へ
長女の外国好きに対して、坂本龍馬と新撰組が大好きな二女は、夏休み前に「大学は京都一本」と宣言。せめて滑り止めは金沢大学と思いましたが、希望を受け入れましる。
夏休み前に、第一希望は府立大史学科と決まりましたが、府立大でも史学科は特にレベルが高く(娘曰く、文系科目だけなら京大と同偏差値)、偏差値からはやや難しいレベルでした。
「優美ちゃんはもっともっと能力があるのだから頑張ればきっと受かるよ。」と励ましました。
親とすればもっと集中すればいいのにと思うほど楽な受験生活ではありましたが、10月頃からはそれまでの「眠り姫」状態(我が家の2人娘の高校時代は、二人とも眠り姫と呼びたい程いつも寝ていました。)とは勉強時間も増え、意識が変わって効率良い勉強方法に変わったのか、成績も上がって無事に合格しました。
何と入試から引っ越しまで京都に6回も行きました。(親ばかも極まる)

1回目(2月)受験の時、姉の家の空き家をマンション代わりに使えるかを確認に行く。(通うには遠すぎた。)
2回目(3月)合格発表の翌日、早朝に出かけてマンションを契約(早朝だったので安いくて良い所が残っていた!)
3回目(3月)学校の視察を兼ねて入学手続き(入学金支払い等)に行く
4回目(4月)ステップワゴンに荷物を積み込み引っ越し
5回目(4月)追加の引っ越し道具を持って入学式
6回目(5月)「奈良かぎろひロマンチックマラニック132km」参加の途中で寄って、米・清水などを届ける。
我が家からは161号線経由(京都の北なので高速を使っても同じ位時間がかかる)で娘のアパートまで150km弱、往復6時間ガソリン代3,000円で行けるので仕事が終わってから行ったこともありました。
ちなみに、長女のアパートは100km弱、やはり夜なら2時間で行けるのでした。
(32)娘二人でダイビングのライセンス取得(2002年3月)
長女がスキューバダイビングのライセンスを取りにフィリピンに行くというので、二女も切れていたパスポートを再取得して、卒業旅行を兼ねて二人で一緒に出かけました。
帰ってきてからすぐに京都に戻りましたが、(向こうではヤブ蚊に何カ所も指されたと言っていたで)風邪を引いて熱が引かないと言うので、マラリアにかかったのではないかと心配しましたが、無事治って良かったです。
長女がクバからスキューバダイビングの話を聞いてやりたくなったようでした。
(33)二女はワンゲルに入部(2002年4月)
「お父さんの子供で一番良かったと思う事は、山に連れて行って貰った事」と言う二女は、ワンゲル部に入部。(一番という事は他にもあるという事かな?)
入学手続きの後、体育館で各部の勧誘がある所を娘と一緒に通り抜けましたが、ワンゲル部は山登りだけではなく、北海道自転車旅行から、沖縄のジャングル探検等「父親の自分が入りたい」と答えた位楽しそうでした。
妻もやっと慣れてきたメールを使って連絡しあいながら、娘の楽しそうな様子を喜んでいます。

2003年7月黒部五郎岳を背に
34)南アルプスでのランデブー(2002年7月)
1年生の時のワンゲル部の夏合宿は、南アルプス縦走でした。椹島から入って赤石岳から北岳まで約10日かけて北上する計画で、女でもザッグの重さは20kgを優に超えるらしい。
週末は山登りばかりで、少しも帰ってこない娘に会いに行こうと山行計画を立てました。休出を振り替えて妻が休みやすい平日に2日の休みを取って、鳥倉林道から入って荒川小屋まで1日で一気に行く強行軍でした。
娘の入山の日に、「列車の事故があったので1日後れるから逢えなくても心配しないで」と電話がありました。今更休みを変更する事も出来ないので予定通り出発しましたが、荒川小屋までは遠く、妻はくたびれ果てていましたが、きっと優美ちゃんに会えるよと言って励ましながらやっと到着。
すぐにテントを立てて昼寝をして、目が覚めると優美ちゃんらしき声が・・・。夢かと思いながら声がした方へ上っていくと、府大のワンゲル部がいて、娘と数ヶ月ぶりの再会を果たすことが出来ました。列車事故で遅れたのでバスに乗れなくなったが、工事の車が乗せてくれたとの事でした。

荒川小屋キャンプ場にて
京都府立大ワンゲル部一行と

3年連続ではるばる娘に逢いに山に行ったので
ユミちゃんのお父さんとお母さんは
ワンゲル部の伝説になったと言われました
(35)娘の婚約(2002年8月)
妻も自分もとてもいい青年だと思った事もあって、娘のボーイフレンドのクバとは6月に涸沢まで行ってキャンプした以外にも、何度も我が家に泊まっていました。お盆も一緒に帰ってきて泊まって行きましたが、数日後また一緒に来ました。
この時はクバの就職の事で世話をしていたのでその相談かと思いましたが、メグとの結婚を申し込まれました。メグに気持ちを聞くと、メグも結婚したいと言う。クバは本当にいい青年なので私たちには異存はなかったのですが、「結婚は2人だけの問題ではない。みんなから祝福されなければならない」というのが自分の考えであり、クバのご両親が了解されているのか心配だったので尋ねると、両親も喜んでくれているとの事でした。クバが信頼されている事がうかがえました。それならという事で我々には異存がなく、あっさりと婚約が成立、2人を祝福したのでした。
親交のあったS氏のご尽力を頂いて日本での就職も無事決まり、クバは留学期限いっぱいの9月末にポーランドへ帰国し、2人は離れ離れの生活となったのでした。

お別れにクバが妻に贈ってくれた胡蝶蘭
残念ながら枯らしてしまいました・・・
(36)急遽結婚式をする事に(2002年11月)
結婚する事になったので、年末年始の休みを利用してクバの両親にご挨拶に行く事にしました。そう決めていたら、メグが11月の連休と学園祭の休みを利用してクバに会いに行きました。
すると、1月からはご両親がシンガポールの大学で勤務されるという事で、我々が訪れる年末に結婚式を出来ないかと相談を受けたとの事でした。
我々も、クバが日本で仕事をしていく上では結婚していたほうが都合が良いだろうと考えました。また、結婚の約束はしましたが、メグはまだ大学が1年残っているので離れ離れで暮らす必要があり、ちゃんと結婚していたほうがお互いに安心できるだろうと考え、年末にポーランドで結婚式をしてしまう事を了解しました。

ご両親の家があるトルンの旧市街
世界遺産に指定されています
(37)ポーランドでの結婚式(2002年12月30日)
結婚式は30日と決まり、1日早く休みをもらって27日午前の便の切符を購入しました。関空へは車で行ってロビー前で車を預けるシステムを利用する事にしました。
26日は激しい雪となり、高速が心配でインターネットで道路情報を見ていましたが、案の定敦賀−木之本間が通行止めになった為、予定を早めて午前1時過ぎ出発しました。敦賀では激しい渋滞がありましたが何とか通過できて、予定どおり午前7時関空に到着し車を預けました。
ワルシャワ空港に着いた時、我々のスーツケースが1つも出てこなくて、係りの人とのやり取りに1時間近くかかってゲートを出たら迎えがいません!あまり遅くなったので来なかったと思って返ってしまったのかと心配しましたが間もなく会えました。
トルンではホテルには泊まらず、ご両親の家に泊めて頂いた。ご両親は想像していた通り素晴らしい人達で、毎日大変な気を遣って頂きました。
結婚式は13世紀から続いているという古い教会で行われました。映画で見ていたシーンとは少し違っていましたが厳かな結婚式で、その後はホテルへ行って披露宴でした。

教会への出発前 ご両親と
(38)クバの来日〜引越し〜就職(2003年1月〜4月)
クバの在留資格の取得に関して、ポーランドの日本大使館の説明が不十分だった為、在留資格の申請を日本でしなければならないと言うので、メグと申請に敦賀まで行った所、本人が日本にいなければ受理出来ないと言われました。申請しても許可が下りるのは1〜2ヶ月かかると言われ、就職に間に合わないかもしれなくなる状況でした。
クバは2月初めに来日の予定で切符を買ってあったのですが、出来るだけ早く来日して申請をしなければならない事になり、そのチケットを捨てて1月末に来日しました。外国人登録手続きは役場の人も親切に教えてくださったのですぐに終了。在留資格の申請も、翌日再度敦賀まで行って無事手続きが終わりました。しかし、申請中は日本を離れる事が出来ないと言うので、2人が計画していた3月の新婚旅行はお流れになり、沖縄方面にスキューバダイビングに行く事になりました。
引越しは3月末。クバの両親の権利として、ステップワゴンに道具を満載して横浜へ。狭い部屋ではありましたが、クバの社会人としても生活が始まったのでした。

(39)日本での披露宴(2003年5月30日)
クバが就職して落ち着いてから日本での披露宴を行うことにして、準備をしてきました。クバのご両親と妹さんにも来てもらい、親戚や近所の人を招待しての披露宴でした。
メグの希望を入れて、ありきたりの結婚式場ではない所でという事で、八ツ杉の研修センターを借りて行うことになりました。準備から進行まで全てを行ってくれるウェディングプランナーの松村さんを姉が紹介してくれたおかげでした。
当日は台風が日本に上陸していたのですが、風は強かったものの奇跡的に晴れてくれました。色々と手落ちもありましたが、参加して下さった皆さんに喜んでもらえてとても良かったです。

出発しようとしたら見物に来てくれた大勢の人が
一斉に拍手をしてくれ、感激しました。
(40)北アルプスでのランデブー(2003年8月1日)
2年生になったワンゲル部の優美ちゃんは、今年は北アルプス縦走で、高瀬ダムから入って槍に登って上高地に下りる計画でした。
以前からいつかは黒部五郎、鷲羽、水晶に行こうと思っていたので、今年はこの百名山3つを登ることにして、優美ちゃんと会う計画を立てることにしました。聞くと停滞を含め三俣蓮華の天場に3泊するというので、去年のように逢えなくなるかもしれないと心配する事もありません。うまい具合に木〜土曜日が三俣蓮華幕営の予定だと言うので、駐車場の混雑を避け、有休を使って金曜日に登る事にしました。(妻は逆に平日のほうが休みが自由になるのです。)
折立から黒部五郎岳まではなんて事はなかったのですが、そこから三俣蓮華の天場までは長く感じました。無事天場で逢えて、翌日鷲羽岳の頂上で別れました。

槍が姿を現したので大喜び
娘は直前にブロッケン現象を体験し感動していました
(41)成人式(2004年1月11日)
次女の成人式
娘の結婚披露縁でお世話になった沖縄与那国島出身の某美容室さんに予約をしておいて着付をしてもらいました。
クバが在留資格申請していたので、その期間は外国へ行く事が出来ず、新婚旅行に与那国島に行ったので、美容師さんと長女と意気投合したので、2回共とても親切にしてもらいました。

(41-2)引越し(2004年2月28日)
長女の大学卒業も間近になり、いよいよ2人での生活が始まるわけでしたが、その前に独身寮のような狭いマンションから、3LDK位のアパートに引っ越す事になりました。Webで物件を調べ、休みの日に2人で見て決めてきたとの事。生活する上では給料の何パーセント以内とかいう家賃の基準があるそうで、出来るだけ広くて新しい部屋という条件を加味して、それまでの所より2駅遠い所になりました。駅までは歩いて約20分でした。
例によって、金曜日の仕事が終わってから、ステップワゴンに荷物を満載し、しばらく寝て午前2時に出発しました。7時ごろには厚木インターを下りて、空いている道路で戸塚駅近くのアパートに到着しました。
荷物を運び込んだ後は、電気製品や家具等の購入に出かけましたが、渋滞がひどく1日目は2店を回っただけで終わり、翌日も夕方まで買物に回りました。


(42)長女の大学卒業(2004年3月25日)
卒業式は幼稚園の時から夫婦揃って皆勤賞であり、大学の卒業式も当然行くつもりで日次を聞きましたが、「来てもお母さん達の相手はしていられないよ」との事でした。我々にはそんなことはどうでも良くて、これまでのメグの大学生活を思いながら2人で感激の涙を流すことが目的でした。
すでに何回か荷物を取りに行っていましたが、最後の荷物の積み込みを行い、8時予約の袴の着付けにも送って行く事になり、朝の5時に家を出ました。
卒業式の会場は自分の時と同じく金沢観光会館で、その前のMROが臨時の袴着付会場でした。着付け会場まで送った後、一旦部屋に戻って、式の始まる30分前に着こうと出かけましたが、周辺は大混雑で駐車場も満杯、しかたなく戻って兼六園下の県営駐車場に駐車して、会場まで1km程を走って行きました。
ロビーには父兄の入場は禁止と書いてあり、係りの人がチェックしているようでした。携帯で呼び出して一緒に記念撮影をしました。とても袴が似合っていました。妻は「卒業式に出られなくても、もうこれで満足よ」と言いました。娘は最上階に席を取ったというので、その入口で見送って帰ろうと一緒に階段を上がって行ったら、そこには係りの人もいなくて父兄が入っていました。そんな訳で、我々もチャッカリ入って、一番上の通路から卒業式を見せてもらいました。(ビデオで撮影しましたが、遠いので大変でした。)

娘は翌日夜遅く帰って来て、日曜日の10時過ぎの電車で横浜へ出発しました。出発まではほとんど寝ていました。数日の間ほとんど寝ていなかったという話でした。

日曜日の朝、メグがまだ寝ているうちに、妻と「今日、本当に巣立って行くんだな。」と話したら涙が出ました。結婚式の時よりも感慨が深かったです。どうか、いつまでも仲良くいて欲しい。
集落の奉仕作業が早く終わり、駅に送る仕事は夫に回ってきたので、もう一度涙を流すはめになりました。「嫌な仕事を夫にさせて」と言いましたが、天女もその時間泣いていたに違いありません。

メグはクバのご両親にも写真を送りました

巣立ちの日
(43)誕生日のメール(2004年)
誕生日にメグからグリーティングカードのメールが来ました。開いてみて涙が出ました。そして天女と「僕らはなんて幸せなんやろ」と話しました。
立身出世も大金持ちにもならなかったから「人生の成功者」とはいえないけれど、「人生の成幸者」になれたと満足感に浸りました。
お父さんへ。
いつも なんにでも力いっぱいがんばっているお父さんの生き方は、私にも多大な影響を与えてきました。感謝してるけど、これからはもうあんまりムリはしないでね。クバも私もゆみちゃんも心配だから。

クバと結婚して、ビール飲み仲間ができたから、よかったね^^
(44)久しぶりの家族登山(2004年4月11日)
次女の優美ちゃんは、ワンゲルとバイトで忙しく(勿論勉強も)なかなか帰って来なくて、今年になってからも1度帰ってきただけでした。妻は「何でもやりたい事が一杯あるのはいい事ね」と言ってはいますが本当は淋しがっていました。4月11日は2〜3週間ぶりの2人一緒の休日になったので、どこかに登ろうかと言ったら賛成してくれました。(九州大遠征以来、山登りも楽しくなったようです。)
この時期に登れる未踏の百名山という事で恵那山を選んで、優美ちゃんにメールで来ないかと言ったら、空いているので来るとの事でした。ただし、前日は午後11時までバイトをしているとの事なので、米原駅7時14分着で待ち合わせをすることになりました。4時に起きて5時には家を出たので米原駅には7時半過ぎに到着。
恵那山は1,500m位から雪があって、登り始めたのが10時頃からだったので、雪も腐っていて時々足跡を踏み抜きましたが、結局スパッツもせずに登りました。娘の近況をいろいろと聞きながら楽しい登山でした。
 
天女は買ったばかりの登山靴だったので、靴連れで苦しみました。自分も同じく買ったばかりでしたが何ともありませんでした。(何れもさかい屋のWebバーゲンで買ったもので4割引きから半額でした。同時にISUKAのシュラフAIR180も買いました。シュラフは余っていますが、これから遠くの百名山に登る場合はテント泊まりが必定なので、夏用の超コンパクトシュラフとして買った訳です。暑がりの自分にはこの程度が良いと思っていました。→娘に取られました!)
(45)教員免許状(2004年4月16日)
卒業式の翌日、福井新聞に金沢大学で教員免許状の授与が延期になったと出ていました。昨年10月にメグから電話がかかってきて、「学校の指導ミスで免許取得に必用な講義が受講出来なかったので取得出来ないかもしれない」と聞きました。「そんなもの、学校のミスなら必要な講義を受けさせてもらうのが当たり前だよ」と言いました。その後講義が受けられるようになったと聞いていたので、ビックリして携帯に電話したら、「私は大丈夫、もらえる。」との事でした。家に帰ってきた時、もう一度聞いたら「横浜へ送ってくれるはず。」との事でした。
16日は金曜日ですが、地区の同好会で衆議院議員の若泉せいぞう氏(同じ集落である)の国会議員事務所を尋ねる事になり、みんなは飛行機で小松から行く事になりましたが、自分と妻はメグが金沢から持ち帰った引越しの荷物を横浜に持っていく必要もあったので、15日夜に荷物を積んで出発しました。
午後7時前に出発して12時過ぎに戸塚の新居に到着。天女のナビ能力の向上(おせじ)と2回目でもあるのでスムーズに到着。ビールを飲んで寝ました。
翌朝は荷物の運び込みを行いました。クバはフレックスタイムという事で案外朝はゆっくりしていました。教員免許の事を思い出して、ちゃんと届いたのと聞いたら、来たよと言いました。妻が見せてと言ったら面倒くさそうに持ってきました。幼稚園・小学校・中学校・高校は公民と地理歴史の5枚ありました。普通に講義を受けていたら2つしか取れない所、留学生と交流するサークルで忙しい中で頑張って取得したものでした。先生にはならなかったけれど、これはメグが充実した大学生活を送った証の一つでした。
持っている所を写真に撮ると言ったら、嫌よと断られました。免許状を借りて、床に置いて写真を撮りました。メグはそれを食卓の引き出しに入れて仕事に出かけましたた。
国会議員事務所に出かける前にアパートの写真も撮ろうという事になり、免許状も持ち出し妻が持って写真を撮りました。
この日、国会議員事務所から帰った後、奥多摩に向かい、17日雲取山、大菩薩嶺、18日金峰山、瑞牆山と百名山をはしごして帰りました。

新居の前で

メグの努力の成果を持って胸が一杯の天女
メグの学生生活の果実は他にも一杯だ
なんてすごい子に育ったのだろう
(46)手作り 本格流しソーメン(2004年7月18日)
5月の連休以来、久しぶりに帰って来た娘夫婦にごちそうしようと、裏山から竹を切り出して手作りの流しソーメンをしました。
井戸水は冷たく、我が家で初めての流しソーメンは大成功でした。味をしめた錆鉄人は、8月にも天女のお母さんと弟さん夫婦に流しソーメンをご馳走したのでありました。

脚立を利用して傾斜を作りました
(47)福井豪雨(2004年7月19日)
19日未明から続いた豪雨は未曾有の激流となり、我が家の橋を乗り越えました。橋の向こうの道路も川になってしまっています。

午後、雨が上がって橋の上に堆積した土砂を片付ける娘夫婦

幅約5m深さ約4mの川は普段はチョロチョロしか流れていないのでしたが・・・

激流が橋を乗り越えた時、
すでに雨はやみかけていました。
乗り越えていた時間はあまり長くありません。
直後の写真
2つ上の橋は乗り越えています。

我が家の裏の谷川の用水路も溢れ
屋敷中が川になってしまいました。
前年の急傾斜地の擁壁工事で
途中から本川に流す用水路を埋めて
全て我が家の裏側に流すようにしたのに
用水路の改修はしていないから
溢れるのは当然といえます。
これは明らかに工事の設計ミスです。
(番外)我が家のお気に入り 芳家さん(2004年12月29日)
クバとメグの結婚2周年と今年のご苦労さん会を兼ねて、お気に入りの京料理「芳家」さんに出かけました。お気に入りといっても高いのでしょっちゅうは行けませんが、とてもおいしいので、たまには違う所をと思っても、同じお金を出すならやはり芳家さんという事になってしまいます。
披露宴の前日にクバのご両親を招待して喜んでもらったことや、メグが初めて給料をもらって5月の連休に帰って来た時に、2人で招待してくれたのも忘れられません。
(48)天女の誕生日(2005年)
年末は「お付き合い」も必要だからクバのご両親の所へ行こうと思っていましたが、海外旅行慣れしている娘夫婦は「年末年始は航空料金が高すぎるから行くのはやめよう」という事になり(娘夫婦は既に7月に行っていました)年末は家に帰って来ました。
最初行くと言っていたので、ご両親は予約していたピピ島でクリスマス休暇をキャンセルし、スマトラ沖大地震の津波に巻き込まれる事がなかったというおまけがつきました。
娘夫婦が買物に行ってくると言って出かけましたたが、買ってきたのは天女の誕生日のお祝いのシャンペンとケーキでした。天女にとって今までで一番うれしかった誕生日に違いありません。
(結婚した昭和55年が年末から大雪となり、錆鉄人は会社まで15km余りを歩いて出勤し、翌日歩いて帰る途中、天女の誕生日のプレゼントの時計を買いに時計宝石屋さんに目出帽にカッパ姿で入り、強盗と間違えられそうになったのも思い出に残っていますが、ほとんどの場合は正月なので姉達が来ていたりして慌しいうちに過ぎていたのでした。)
今年は結婚25周年だから記念の旅行がしたいと思っています。もう涸沢の日帰りは無理かもしれないし・・・企画するのが楽しみな錆鉄人です。

幸せな天女です

ユミちゃんは年末年始は
スキー合宿で帰ってきませんでした。
スキーがとてもうまくなったと言っています。
無理に帰ってくるよりも
それもユミちゃんにとって良いことだと思っています
(49)就職決定お祝い(2005年7月2日)
ユミちゃんの就職が決定しました。京都か大阪で就職したいと言って就職活動をしていましたが、某社から内定を貰ったのでそこに決めました。内定した会社では「営業をしたい」と言ったそうです。我々の子が営業とは・・・、親はなくても子は育つと申しますが、本当に子供というものは親を乗り越えて行くものですね。ユミちゃんは優しくて真っ直ぐな子なので、どこに入っても負けない仕事が出来ると思っています。
前置きが長くなりましたが、就職が決定した時には、娘が1年の時からアルバイトに行っている「おばんざい」屋さんの「あ多知」というお店に行こうと決めていたので、天女が休みの2日(土)に行く事にしました。はるばる京都まで行く所が我々らしい所です。「あ多知」は「いちげんさんお断り」という高級店で、主なお客さんは大企業の重役さんで、芸能人もよく訪れるとのことです。
そういう所なのでママさんも礼儀作法に厳しく、またトップの人とじかにお話出来るのでユミちゃんはとても勉強になっていると思います。
普段は土曜日は休みなのですが、予約が入ったので、我々もお邪魔出来るようになったのでした。折角の休みに京都まで行くのだからと、京都にいる2番目の姉の所へじゃがいも等を持って行き、それから東寺を観光して18:30にお店に行きました。
ママさんは大歓迎してくださいました。おばんざいの味に関しては、料理が出てくる度にユミちゃんが「う〜ん、感激」と言って食べていたという事に尽きると思います。ビールも良く冷えていておいしかったです。冷酒は冷やした竹のカップに注がれました。3時間余りがあっという間に過ぎて、最後にお店を出ました。
それからは、天女が運転して(今回は天女のムーブで行きました)ユミちゃんを送り、途中で2回仮眠して午前2時過ぎに家まで帰りましたが、天女が「3日は疲れていて仕事が大変だった。」と言うので、夫の偉大さが分かっただろうと大威張りしました。

お店の中で


ママさんとお別れの写真
山菜の採れる頃に来てもらう約束をしました
(50)結婚25周年記念東北ヒコヒコ旅(2005年8月19日〜21日)
ちょっと早いけれど結婚25周年記念旅行として、東北百名山4つに登りながら東北観光をして、温泉にも入ってこようという超欲張りな計画を立てて、前夜発2泊(車中泊)3日で実行してきました。
行った所は
1.蔵王(百名山)
2.中尊寺観光
3.わんこそば挑戦(盛岡)
4.不来方城観光(盛岡)
5.啄木記念館観光
6.八幡平(百名山)
7.後生掛温泉
8.岩木山(百名山)
9.竜飛崎観光
10.八甲田温泉
11.八甲田山(百名山)
12.酸ヶ湯温泉
13.奥入瀬観光
14.十和田湖観光(観望)
総走行距離は2,368kmでした。

錆鉄人82杯 天女61杯
しっかり「元」を取るのが天女流

岩木山頂上「愛の鐘」
(51)盛りだくさん山陰旅行(2005年10月14日〜15日)
年に1回の親孝行と我々の結婚25周年の記念に、さらにユミちゃんの良縁祈願や天女の恩師のお見舞いをしようというたくさんの目的を詰め込んで、玉造温泉グランドホテル長生閣に泊まってきました。


祈りをこめて水面を眺める
(52)天使誕生!(2005年11月21日)
待ちに待った、待望の天使の誕生です。ついに天女もおばあちゃんになってしまったのです。(という事は錆鉄人もおじいちゃんという事です)
メグが破水して入院したという知らせを聞いた我々は居ても立ってもいられず、事情を聞いた勤め先の人が午後から休んでもいいとの言葉に、一路横浜まで走りました。米や野菜や果物などと共に、年末にクバの両親がお見えになった時に使う布団や毛布を積み込んで行きました。
着いたらすぐに産院に行きましたが、陣痛もなくあっけらかんとしていました。翌朝はクバは仕事に行きましたが、天女は張り切って掃除洗濯をしました。
退院した時は、天女が一人で電車に乗って来る事を想定して、天女を駅まで連れて行きました。なにせ天女なので大変なのです。(といいながらも錆鉄人も2回目に来た時、酔っていた事もあって迷子になってしまったので威張れません)
駅から産院に行きましたが変わりありません。夕方になると道路が混雑するので3時頃に車で行った時は8分置き位におなかが痛いという事でしたが、まだ陣痛かどうか分からないとの事で、4時頃に産院を出ました。途中浜名湖SAで夕食休憩の時にクバに電話すると、陣痛が5分置きになっていて生まれるのは朝方ではないかという事でした。10時頃家に帰ってすぐクバに電話しましたが繋がらず、すぐに電話が掛かってきて、元気な泣き声が聞こえました。
生まれたばかりの泣き声を聞ける便利な時代になったものです。
良かった!ヨカッタ!と天女と抱き合って神様に感謝しました。これでもう安心と12時頃に寝たのでしたが、翌朝の電話にビックリ。不安でオロオロするしかない我々でした。
メグが大出血して救急車で別の大きな病院に入院したというのでした。居ても立ってもいられない天女でしたが、3日間は絶対に仕事を休めないのでした。でもクバが会社を休んでメグに着いていてくれて毎日何回も連絡をくれたので不安が安らぎました。
医者も助かったのが不思議なくらいだといっていたそうですが、メグは子供の頃からフルマラソンをしたり登山をしていたので強い体力が備わっていたのだと思います。


21日深夜
生まれたばかりの天使と共に

24日天使と再会
辛くて不安な日々でしたが
今度こそ安心です!

メグが命がけで生んだい命
しい人間に育って欲しいとの願いから
優貴クンと名付けました
(52)家族大集合!(2005年12月30日)
優貴クンの誕生にクバのご両親も大喜び。クバはご両親やポーランドの友達にも見てもらえるように早速ホームページを立ち上げましたが、早く赤ちゃんを抱っこしたいと毎日のようにおっしゃっていたそうです。
我々は29日にクバのご両親の布団や雪の下から掘り出した大根やニンジンなど料理の材料を積んで横浜に行きました。天女は掃除に炊事にと大張り切りでした。30日午後、成田空港まで迎えに行き、光輝く「海ホタル」を観光してもらって戻りました。
お父さんもお母さんも、それはそれはうれしそうに優貴クンとご対面。縫いぐるみやメリーゴーランドのような物など、スーツケースの中は全部優貴クンへのお土産か?と思う程たくさんのお土産を持って来られました。
それから、、天女が腕によりをかけて作った鍋を一緒に食べながら、再会と幸せを喜びあいました。

余りに長くなったので、2006年から後はこちらに移行します。家族のチャレンジは、「家族の愛」に姿を変えて続きます。

三脚まで持って行っていたのに
忘れていたので全員で写せませんでした
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