錆鉄人の夫婦でマラソンチャレンジ

仕事・子育てに追われ気がついたら走り方さえ忘れていた
何をするにも体力が必要とマラソンをすることにしたが、
やっと1km走って歩いて帰ってきた1日目から、
家族でホノルルマラソンに挑戦し、
夫婦でサロマ湖100kmウルトラマラソンを走り、
今日に至るまでのマラソン二人三脚の記録

  ○走り方を忘れた自分に愕然とする。
  ○結婚10周年の記念に親子でホノルルマラソンを走ろう
  ○故障!40肩!最後の記念にサロマ湖100kmウルトラマラソンを走ろう
  ○そして、いつのまにか妻に勝てなくなった・・・夫はつらいよ
  ○練習もしなくなってからのウルトラマラソンへの挑戦
      錆鉄人のウルトラレースの極意

(14)日本山岳耐久レース
一旦無謀なことをすると、次はそれ以上に無謀なことをやりたくなる。これは錆鉄人だけの特性ではない。
次の目標は日本山岳耐久レース、別名「長谷川恒夫カップ」であった。食料・水・防寒具などの装備をかついで奥多摩の山71.5kmを24時間以内に走破するというレースである。スタート地点に戻るのであるから、少なくとも半分以上はは下りか平坦であるという事になる。従って24時間なら歩いてでも踏破出来ると思った。
レースは「錆鉄人のウルトラマラソンの極意」にのっとって、実力以上の上位グループでスタートし、その中で頑張り続けた。どんなに意思があっても身体が持ち上がらない極限状態を幾度も繰り返しながらも感動のゴールをした。トレーニングをなにもせずに参加約1,100名中297位だった。
翌年は、妻を誘って再チャレンジ。自分は足がつりまくって途中棄権した(視力の衰えに恐怖も感じ)が、妻は見事に完走した。
この視力の衰えは、その後の検査で(近視の進行しにより)通常かけているメガネで視力が0.2程度まで落ちていた為だと判明したが、そろそろ無謀な挑戦は卒業する時期かもしれないと感じた。
 
(13)奈良かぎろひロマンチックマラニック
新しい仕事を立ち上げていたので、土日のほとんど休みなく朝の8時から夜の10時まで仕事をしていたので、年間では4,000時間以上になった。当然、体力は落ちきっていて年末にひいた風邪が何ヶ月も治らなかった。
練習しなくてはいられないハードな大会に出場を申し込めば、忙しくてもトレーニングをして体力を回復するだろうと考え、出場資格の「心身ともに健康で、100kmを12時間30分、フルマラソンを4時間以内で走れることができ、大会規定を守りタバコを吸わず、人のために汗をかくことができ、感動する心と感謝の心を常に持ち続けている人」に共鳴していたので無謀にも申し込んだ。
結果は88km地点でリタイヤしたが、自分としては極限まで頑張った事に満足した。この頑張りすぎのお陰で3日間もおしっこが出なかった。
 
(12)立山登山マラニック
やはり10kmを数回走った程度で、練習はほとんどしなかった。ただ、自分は暑さに弱いことは痛感していたので、スタートの午前3時半から涼しい朝の間に頑張っておこうと考えていた。
富山湾の海水で手を清め、たいまつの明りを先頭にスタートして成願寺川の堤防を遡った。その横をビデオ撮影のバイクが走っていたので、映るとしたら今しかないと思って先頭集団に入って走った。当然、少しずつ遅れていったが、後続集団は長旅に備えてゆっくり走っているらしく追いついてこない。
立山駅までは走った(19位)が、称名の滝までは時々歩き、そこからの急坂は当然歩いた。上りきった後の有料道路は少し傾斜があるともう走る力が残っていなかった。(つまり、称名の滝からは、ほとんど歩いたという事である。)
しかし、参加80人中23位で立山頂上に立ったのであり、自分のウルトラマラソンに対する適性に自信を持った。
(11)富士登山競争
村岡ダブルフルを走って、自分にはウルトラマラソンに対する適性があるのではないかと感じ、以前からチャレンジしてみたいと思っていた「富士登山競争」を申し込んだ。
富士吉田市役所から山頂までを3時間半以内で登るレースである。しかしスタート直後から登りばかりが続き、誰か歩き出す人がいたら自分も歩こうと思っている走力では、やはり無理があった。それでも完全な登山道では順位を上げながら登ったが、十数分の差で時間内完走は出来なかった。翌年の2回目は悪天候の為、5合目でカットになったので楽々完走。本当はこの時なら時間内の頂上に立てたと思うほど調子が良かったので、完走賞はもらったが、本当の完走ではないので悔しい思いが残る。さらに翌年、妻と一緒に出たが、走力はさらに低下していて、やはり十数分の差で完走証を逃した。(錆鉄人の言い訳;仕事が終わってから車で6時間近く走って駐車場で数時間車中泊してレースだからかなり無理がある)走力が落ちていない妻は完走確実だと思ったが、たった2分で完走証を逃した。
富士登山競争は相当な走力が必要であり、体力だけでは駄目なレースである。ただし、これがさらに距離が長くて制限時間も10時間位のレースであったら、自分が完走出来る確率は高いと思う。つまり、富士登山競争は制限時間の厳しいフルマラソンのようなものである。
 
(10)新たなるチャレンジ
そんな訳で自分はマラソンの情熱は冷めていたが、体力だけは維持したいと思っていた。そんな時、仕事で関係のあった兵庫県の村岡町で、標高差が1000m以上もあるダブルフルマラソンが行われるとランナーズに出ていた。春先に一つマラソン大会を走って以来、数ヶ月走っていなかったが、これに出たいと思った。6月のある日、1日中田圃の草取りをして疲れていたが、こんな時でも30kmくらい走れないと出場する資格はないと思って走り始めた。9時に出て、家に戻ったときは日が変わっていたが、30kmを走りきった。そして、申し込んだ。
結局、練習はこれ以外に10kmを数回走っただけで大会に出場。登り坂は歩きと決め込んで、下りと平坦なところだけを走ったが、自分でもびっくりするほど上位で完走してしまった。 
(9)妻には勝てません
そうしているうちに、自分はだんだんとマラソンの練習をしなくなり、走力は低下。妻はそれでも休みの日の平日の昼などに地道に練習をしていた。
そして遂にフルマラソンで妻に勝てなくなってしまったのであった。最初は30kmくらいまで一緒に走っていてそこからは先に行かせていたが、だんだんと一緒に走れる距離が短くなった。そのうち、折り返しですれ違うまでは歩かないでおこうというていたらくになってしまった。

 
工事中

花ハスマラソン夫婦の部で優勝
夫婦の部は妻の走力で順位が決まる。
この頃は妻を引っ張っていたのだが・・・
(8)国際女子マラソンを目指して
サロマ湖100kmも完走して、妻のマラソン力はすっかり回復した。次の目標は15分タイムを縮めれれば参加記録を突破出来る国際女子マラソンであった。
コーチである自分からみれば、月間200kmの練習を半年続ければ突破出来ると考えたが、家事・子育て・仕事と一つも手を抜かない妻にとって、月間200km走行することは困難だった。少し走ると故障してしまうを繰り返した。故障は妻の体が悲鳴を上げているサインだったのかも知れない。
結局、妻は本当のマラソンを走る体力・スタミナをつけないまま走って、潰れるのであった。
 
(7)サロマ湖100kmウルトラマラソン挑戦(94年)
武蔵マラソンは走ったが、走った後はお腹が痛いらしく、やはり駄目かと思った。この頃自分はそれまでの会社をやめて単身赴任で県外に勤めていた。
当然練習などもしなかったが、妻の肩が上がらなくなったという。早いけれど40肩かもしれないなと思った。もう段々とマラソンなども出来なくなるんだなと思ったら、その前にランナーズで毎年特集されるサロマ湖100kmを走ってみたいと思った。勿論、妻も一緒で手をつないでゴールの写真を撮ってもらおうと思った。自分も変わっているが、少し走るとお腹が痛くなる妻もその気になったのだから変わった夫婦であった。
妻はやっと2〜3回練習して出場した丸岡古城マラソン3kmで2位になった。レースで痛みを忘れて頑張った為か、妻のお腹の痛みは消え、妻は4月に月間200km、5月は月間500km走行したのであった。
 
(6)子宮ガンからの復活(93年)
2〜3年前に子宮ガン検診でポリープがあると言われていたが、92年の検診で悪性新生物の0期だという診断になった。0期という事はまだガンかどうか分からない位の状況らしいが、若い間はガンの進行も早いと聞いていたので、手術を決定。子供が夏休みの8月に手術をした。治ったらまた走ろうと励ましていたが、少し動くとお腹が痛いらしくマラソンどころではなかった。
それでも、翌年今立町と姉妹都市の大原町の武蔵マラソンに連続参加。(妻の恩師に逢いに米子に行く旅行を兼ねていた。)去年の6kmの部優勝とは比較にもならないが、どうにか3kmを走った。
 
(5)親子でホノルルマラソン出場(91年)
その頃、結婚10周年を迎え、記念に海外旅行に行きたいと思った。マラソンを始めていたので定期購読し始めたランナーズに親子でホノルルマラソンを走った家族の記事がった。これだと思った。練習をして翌年家族4人で挑戦することに決定。
当時努めていた会社では、1週間を越える休暇をとることはほとんど無理なことでしたが、どうにか認めてもらって出発!(妻も少人数の観光売店でしたから他の人に大変迷惑をかけました。)
次女の優美ちゃんは風邪でドクターストップがかかり、親子3人でのゴールとなったが、ホノルルマラソンの感動のゴールを踏んだのであった。
 

ホノルルマラソンの完走パーティにて
自分と妻が着ているのが完走Tシャツ
(4)親子マラソンに参加
今立マラソンでもファミリーマラソンがさかんで、子供も大きくなったので参加したが、如何せん娘達は校内マラソンで後から数えたほうが早いのですから、オリンピック精神でした。
自分の小さい時はマラソンや駆けっこでほとんど負けた記憶がないのに何故だろうと思っていました。
 
(3)マラソンが秋の恒例行事に
初めてのマラソン大会で5位入賞という偉業?を達成した妻。肉離れでビッコを引きながら走って、しゃべりながら走っている50代の人にも負けた自分。
栄光と屈辱の記憶が、翌年も出場へと駆り立てたのでした。
そして、遂に屈辱は晴れたのでした!前年に引き続き妻は5位入賞、そして自分も何と6位に入賞。この年は決して参加者が少なかったわけではありません、実力です。(とはいえ、10kmで45分13秒、妻は5km23分34秒、如何にレベルが低かったかという事が分かります。)しかも、夫婦揃って入賞という事で町の広報誌にも写真入りで紹介されたのでした。
それからは、お盆の頃から練習を始めて(2〜3日毎に)、10月10日の今立マラソンに出場するのが恒例になった。練習を1ヶ月余りすることによって記録もかなりアップするようになった。
 

87年10月10日夫婦で入賞
(2)柔軟体操中に肉離れ、妻は入賞
屈辱の体育祭から数日後、マラソンの練習を始めた。車で家から1km、2km・・・の地点を調べておいてそこまで走る事に決めていた。
山間部の我が家からは下る一方であるが、初日は1km走って疲れ、帰りは歩いた。それでも2日に1回程度練習をして5kmを走れるようになった。
 
開会式の後、妻に背中を押してもらって柔軟体操をしていた。もっとしっかり押してと言った次の瞬間、「バキッ」と不気味な音がして太ももの後ろがまた肉離れした。医者にも行かずマッサージもせずに、単に固まりかけていた筋肉がはがれたのであろうか。もう足で蹴って前へ進む事は出来なかった。それでもヨタヨタと10kmを完走した。
翌日朝、当時の和式のトイレに座れなかった。無理やりしゃがんだら又バキッと音がした。その日の夜、風呂へ入ろうと思ってズボンを脱いだら両方の太もものうしろが内出血で全面紫色になっていた。
妻は5kmの部で出場、10人程度しかいない参加者の中で5位に入賞した。その喜びがその後妻のマラソン熱を支えた。
(1)走り方を忘れた自分に愕然 86年9月
田舎の5人姉弟の末っ子でたった一人の男の子だった自分は、小さい頃から田圃や山の仕事を手伝い、腕力・体力では他人に負けた事がなかった。中学校は陸上部で短距離をやっていた。大学ではボート部に入りウェイトトレーニングと持久走を行っていたので、プロ野球のキャンプ便りをみると「プロなのになんて弱いのだろう」と歯がゆく思っていたものであった。
しかし、就職して結婚するまでは山登りサークルで少しは体を動かしていたが、結婚してからは仕事が忙しくて全く運動をしなくなり、いつしか夢想だにしなかった「体力レス人間」になってしまっていた。 
結婚して5〜6年後、地区の体育祭の100mに出場を頼まれた。世話をする人に断っては悪いという以上に自信もあった。
フライング気味に飛び出したはいいが、全く前に進まない、一生懸命に頭で「右足を前に出して、次は左足を前に出して・・・」と命令しなければならない状況であった。しかも50m付近で右足を肉離れし、80m付近で左足も肉離れを起こしてやっとの思いでゴールした。
2位という結果以上に「走り方」を忘れている自分の呆然自失であった。なによりも自尊心が許さなかった。1ヶ月後の今立マラソンに練習して出よう、と妻と話し合った。


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