錆鉄人の唯我独存

お釈迦様は生れたときに「唯我独尊」とおっしゃったとか。
錆鉄人は様々な人生経験を積んで「唯我独存」となった。言葉(発音)は同じであるが字が違う錆鉄人の造語である。その意味は
他人の考え方や常識にとらわれずに自分の価値判断で行動すること、あるいは価値判断そのものです。(=我独りでも在る)つまり、以下は錆鉄人の独断と偏見のカタマリであるということです。従って「読損」となっても怒らないで下さい。

15.似非創造性教育論
かって日本人は世界に誇れる人間性を持った民族であった。が、現状は御存知のように情けない状況である。
その原因はやはり「教育」にあると思う。もう20年も前から、「創造性のある人間に育てる為には○○しては駄目という教育をしてはいけない。何でもやらせてみて、そこで悪いと分かったら止めれば良い。」という似非創造教育論がまかり通っていて、未だに高名な教育論者のような人がそれを公言している状況である。もし、全ての人間がアインシュタインと同等の脳力があったなら、あるいはそれは正しい教育論かもしれない。だが、残念ながら人間の大部分は普通の脳力しか持っていないのであり、そういう教育をした所で創造性が生まれる筈がないのである。そして生まれてくるのは、「人を殺してみたかった。」という理解を超越した「創造性」を持った子供大人である。
元来、人間は先人が学んだものを教育・学習によって修得することによって「時間短縮効果」が働き、新しい文化や技術なりを作り上げていくことが出来たのである。つまり、新しい文化や技術は、それまでの文化・技術の上に花開いているのである。「創造性」に関しての間違った観念の最たるものは、例えば新しい技術の考案をしなければならない場合などに「今までの技術を全く知らないから、固定観念に縛られずに新鮮な発想で新しい技術を考案出来るはずだ。」という考えであり、これも同じ考え方による間違った考え方である。
しかるに、こういった似非教育論にマスコミも便乗しているので、世の中の親は、「創造性の開発という名目の放任主義」に陥っている。
【不登校の原因】悪いことをしても誰も止めず、叱られもしないで育つ。社会生活の上で必要なモラルやタブー、思いやりといったものさえ全く教えられずに学校へ行く年齢になり、その中では、それまでの身勝手な行動は同級生からも糾弾されることになり、糾弾された子供はその経験がないのでうろたえ引きこもるしかないようになり、こうして夥しい数の不登校児童・生徒が発生しているのである。「駄目」といわれたことがないから、同級生から「駄目」と言われただけで全人格を否定されたような衝撃的なショックを受け、学校へ行く事が出来なくなるのであろうと考える。登校拒否に対して、このような見方をした論評は見た事がないが、錆鉄人はまず間違いないと考えている。もうこうなったらおしまいで、立ち直らせるのは大変だろうと思われる。子供を不登校にさせない為に大切なことは、小さい時から善悪をきちんと教え、良い・悪いの判断をして行動出来るようなまともな人間関係をおくれる人間に育てることだと考える。逆に、こういう似非創造教育で育った訳の分からない生徒からのいじめを受ける場合もあるかもしれないが、まともに育てられた子供はそれに対応していく力を持っているに違いないと考える。

14.インターネット
錆鉄人の仕事はインターネット関連である。専攻は機械科だったので情報分野に関しての智識はないが、そこの所は他の人に頑張ってもらっている。
という事でインターネットが仕事の種なのであるが、インターネットの世界を見ていると大丈夫かなと心配になっている。コンピューターウィルスから始まったセキュリティ上の脅威は、様々な亜種・新種を生み出し、さらにボットと呼ばれるものが現われて知らない間にパソコンを乗っ取られたりする。メールでもフィッシングといって送信者を騙って偽のホームページに誘導してクレジットカードの暗証番号を入力させたり・・・。振り込め詐欺や架空請求が横行しているが、メールの世界でもおかしな(主にピンク系)メールが蔓延して詐欺的ホームページに引きずり込もうとしている。今や正常なメールよりも横行してメールの便利さを奪おうとしている。大半は「愉快犯」で実害はないのかもしれないが、判別はつかないのでそういうページは絶対に開かない事が重要である。
いずれにしても、コンピューターの世界で一般人は全くの素人であり、サギや犯罪を企んでいる輩はプロである。そういう詐欺的なものを含めて後追いで対策は出てくるとしても、今が安全という保障はない。善良な市民をペテンにかける事を仕事にしている彼らに対して、素人に勝ち目は絶対にない。危険性の認識すら甘い一般人がほとんどであり、被害を受ける人は今後益々増えることは間違いないであろう。
このようにインターネットは、今後ますます危険なものになる事は間違いないと思われる。怖くて使いたくないが、使わない生活など考えられない程、生活に密着してしまっている。今のインターネットとは違った仕組みが出来ない限り、インターネットの将来はないのではないだろうか。

13.死後の世界
近くにいるのに最近会っていない親しい友人から電話をもらい、家に尋ねてくることになった。
夜8時の約束で少し前に帰ったら同じタイミングになり、家に入ってもらって話を聞いた。もう1人、自分は初めての人がいたが、その人は天女の同級生だった。
「誰にでも話すんではない、この人はと思った人にだけ言うんや。」と言って仏教の話を始めた。友人よりももう1人の人が仏教に詳しく主に話をしてくれたが、今のお寺さんは堕落していてまともなことを話さないが、京都のさるお寺に素晴らしい人がいると紹介されて行ったら、本当に素晴らしい人でその人の話を聞いたら後生が約束された・・・云々というような内容であった。ただ、すごいという事を興奮して語るが、こちらは何がすごいのかはよく分からなかった。ただ、それを聞いた友人も最初はそんなもんと思っていたが、1泊2日で話を聞きに行ったら本当に素晴らしかったので、嫁さんにも「頼むで行って」と言って翌週に行かせたという。
実は錆鉄人の母は某新興宗教に凝っていたので、幾度と無く不思議な体験の話などを聞かされてきたが、自分は技術者の端くれでもあり、「自分の頭で考えて理解出来ない事は信じない」ことに決めて今まで生きてきたつもりである。
自分という小さな器、頭では理解出来ないはるかに越える世界があるだろうという事は分かるが、それは自分には関係のない世界であり、「自分として納得出来る答えを見つけながら生きていこう」と言う考えである。まさに、「唯我独存」らしい考えかたであると思っている。
死後の世界は、自分には分からない。従って、「後生」に対しても特に意識はしない。ただ、その立派な人の話を聞いたら後生が約束されるというものではないとは断言出来ると思った。そうでなければ、世界中の人の中のごく少数の人しか後生を約束されないという不条理が生ずる事になるからである。自分としては、やはり天女のような心のきれいな人間が極楽に行くべきだと思うし、そうでなければ、そんな世界は行きたいとも思わない。案外極楽もこの世と同じような人間関係があって、殺人や詐欺や汚職が蔓延していたりするのかもしれないと考えると、少しも有難くない。
しかし、噂によるとこの言い伝えのような話はどうも近隣で拡がっているようである。なにか、信仰の「ねずみ講」のような感じがする。

12.衝突事故は避けるべからず
出勤途中で事故に遭った。朝方少量の雪が降り、渋滞するかもしれないと少し早く家を出発したのが仇になった。
原因は側道の相手車両が一端停止を無視して突っ込んできたためであり、現場は50mほど手前の信号で対向車の通過を待って右折して橋の上まで少し上って橋の先からは下りになっている所で、橋から15mほどの所に側道が交差するようになっている。側道の左側側から突っ込んできた黒塗りのクラウンは右折して自分が通過した交差点のほうに曲がろうとしていたので、勿論スピードは出していない。鼻先をセンターラインから突き出して止まったが、すぐに証拠を隠すためかバックした。自分の車はその鼻先をかろうじてかわした(つまり右側車線へ逃れた)が、下は雪でスリップしやすい状況でありハンハンドルを切り直すことも出来ないままほぼ直進して交差点の左記のガードレールの突当った止まった。もし、雪がなかったら手前で止まることが出来たと思われるが、逆に雪がなかったらそれまでの走行スピードはもう少し高かったと思われるので避ける事が出来ずに追突していた可能性が高いであろう。
相手は中年のおばさんで、信号の先にある東陽中学校に息子を乗せて行く途中だったようで、息子にはここから歩いて行くように言ってから、「済みません、済みません・・・」と泣きそうな声で繰り返した。「あなたが一時停止を無視して突っ込んできたのだから修理代は出してくださいね。」というと「はい、もちろん。本当に済みません。」と言った。手帳に住所・名前・電話番号・車のナンバーを書いてもらったが、「主人に電話したいので携帯を忘れたので貸して欲しい。」と言って電話して主人が来るまで待っていて欲しいと言った。
家は車で10分程の所なのに30分ぐらい待たされて、先に来たのは保険屋だった。ここでやっと自分の車をバックさせた。車の数を写真に取り、車は何処で修理するつもりかとか聞くので会社の横のホンダでするつもりだと言った。傷を見るとそれ程大したことがないので、古くなっているし、一部には錆も出てきているし、後のバンパーにはもっと大きな擦り傷(自分でつけた)もあるので、このままでもいいかなと保険屋の前でも口から出して言った。
しかし、保険屋からは見積を連絡してくれと言われていたので、昼休みに電話して車を見てもらったら、バンパー交換するほうがすぐに修理が済むし費用もさほど変わらなくて45,000円位だと言った。約束なので保険屋に電話すると、普通は交差点事故の場合修理費用は9:1なのだが、こちらが避けて自損事故になった場合は逆に8:2になるという。そんな馬鹿なはなしはないし、相手は保険屋さんがいたときも修理費を持つと言ったでしょうというと、その場ではそんなことも言っていたが保険以上は出す気がないと言うので、自分も頭に来て「自分は避けられなかったら双方で100万円位の修理費はかかっただけでなく、恐らく人身事故にもなっていたんですよ!」といった。保険屋は加害者と話をして連絡しますという返事だった。
保険屋からの連絡を待っていたが、何日たっても連絡が来ないので、1週間後こちらから電話したら、担当者は違う人間に連絡を頼んだと言って、違う人が折り返し連絡してきて、相手は出す気がないと言っていると言う。この対応もひどいが、この間、相手からは一度も済みませんでしたの電話さえなかった。
非常に頭に来たが、たかだか数千円の為に仕事をホッポリ出して相手と交渉するのもどうかと思っているうちにまた数日が過ぎてしまった。数千円の出費をしてでも相手にはちゃんと保険でのしはらいをさせて、それなりのけじめを付けようとか、家を尋ねて文句を言おうかと思ったが、そういう人間を相手にしているのだから、無駄のように思えた。
このままうやむやになる可能性が高いと思ってそういう態度を取っているに違いないが、今は得したと思っても、そういう人って絶対にその報いは受けるに違いないと思ったら、もうどうでもいいやという気持ちになった。メガネの自営をしていると言っていたが、メガネはすでに仕事がほとんどない状況で廃業する人が続出しているのだから、仕事の上できっと困る事態に追い込まれるに違いない。息子もそういう対応をする親に育てられたのだから、きっとろくな者にならないだろう、というか、すでにそれまでの不埒な行いの報いを受けているに違いないと思い、相手が逆にかわいそうに思えるほどであった。
顛末はともあれ、信号無視や一端停止無視で突っ込んでくる車があったら、避けてはいけないという事である。自分の場合、対向車がなかったが、ハンドルを切った為に対向車と衝突してもっと大きな事故(直進の対向車だから相対スピードが大きい)になったり、歩道にいる人間を跳ね飛ばしてしまう可能性もある(その場合、自分の責任にさせられる可能性が高いと言う事に気付いた。)のだから、ブレーキは踏んでもハンドルは切ってはいけない!これが今回の事故で得た教訓であった。あのままぶつかっていたら、車の前面の大破で修理費は50万円にはなっただろうから、その分の保険金を貰って今頃は新車と入れ替えていたかもしれない所ではある。

11.登山の常識は非常識

錆鉄人はおかしな性格で、何かをする時は遊びでもヒーヒーハーハーでないと気が済まない。従ってマラソンや登山が趣味であり、ゴルフのようなかったるい事は出来ない。ゴルフはバイアスロンのように、打数だけではなく時間をも一緒に競う競技にすれば良い、そしたら錆鉄人もチャレンジしようではないか。
すでに他のページで錆鉄人が非常識な事は理解出来ていると思うので、以下はそのつもりで呼んで下さい。あくまでも「自己責任の世界」です。
登山とは苦しさに耐えて頂上を目指す崇高な行為であり、それがゆえに若かりし錆鉄人は登山に憧れた。登山に行って山のようなザックを担いだ人を見ると単純にすごい人だと心の中で尊敬していた。従って錆鉄人もいつも1回も使わないものを大量に詰め込んだ大きなザックを担いで登山をしていた。足には某登山店に勧められて買ったヒマラヤ遠征にでも使うような立派な登山靴を履いていたが、それは硬すぎて毎回巨大な靴擦れを引き起こし皮がめくれた。靴擦れの痛みと重い荷物にあぶら汗を流しながら、これぞ崇高な登山であると感動していた。親子で登山をしていた時も同じようなもので(もっともザックの大きさには限りがあったので荷物は選んでいたが)ビデオまで持って行って撮影していた。これらのビデオは我が家の宝だから、その時は重要な装備であった訳である。
仕事の忙しさでマラソンをしなくなってから、しばらくご無沙汰していた登山をするようになった。百名山ブームのあおりを受けたとも言える。(錆鉄人は実はミーハーなのです。)やりはじめると結構熱中する正確の錆鉄人は、1日しか登山に使える日がないことが多い中で、県外の百名山に登ろうとして考えた。次の日仕事をする為には移動の時間は前日の夜にするとしても、コースタイムの半分で登って来て、さらに数時間車を運転して帰って来なくてはならない。
錆鉄人は練習もせずに100kmウルトラマラソンにもチャレンジするというねじれた性格でなので、汗だくになって登山する事はなんでもないが、コースタイムの半分で登山するためには今までの装備では無理があり、軽量化を計らなければならない事は明白だった。
登山のガイドブックを見ると、標準の装備、携行品というものが表になっている。食料と水、地図にコンパスは当然だとしても、天候の急変に備えての雨具や防寒具に着替え、万一に備えてのビバーク用品、1日分の予備食料とある程度の予備の水、当然夜になる事も想定してヘッドライト(ヘッドライとは球切れの可能性があるので予備の電球に予備の電池も必要)・・・・そのうちに万一の場合に備えてお医者さんを連れて行きましょう・・・となるかもしれない。(これは冗談)
このように一般の登山者は、おっそろしくたくさんの「実際には使わない=必要のないグッズ」を持って登山しているのである。そして必要がなかったものを持っていた事に対しても、そういう場面に遭遇しなくてラッキー!と思っているようで、不必要なものを持って行っているという意識は皆無である。錆鉄人も昔はそうだった。なんという従順な登山者達であろうか。百名山ブームのおかげで、日頃何の鍛錬もせずに会社ではタバコをプカプカ、腹の突き出た中年のおっさんが、大きな重たいザックを担いでヨタヨタと今にも息が止まりそうに登っている姿を良くみかけるが、もう少しザックを軽くすればもっと楽だろうに思ったものである。不必要なものを売ってでも儲けたい登山用品店とガイドブックが結託しているのではないかと勘ぐりたくなる。もしもの時というものは際限がないので、ガイドブック的には最悪事態に対応した装備を持って行くように勧めるのはしかたがない。要はそれを読んで実際に装備を準備する側に人間の問題であるが、交通ルールよりもはるかに忠実に実行している。
さて、軽量化である。普通に夏山の登山をする場合、本当に防寒具とか予備の食料が必要であろうか。(小屋泊まりなら防寒具は必要かもしれない、人間、動いていない時は熱をほとんど発生しないので寒くなるものであるから)大抵の山は麓や山頂付近に山小屋が点在して、登山道の案内標識もほぼ完備されていて、2〜3回登ってみれば、コースタイムに対して自分がどれ位で登山できるかが推測出来る。従って道に迷ったり途中で動けなくなる事はまず考えられないし、本来人間は1日位食べなくても動けるのであって予備の食料などは不要である。(むしろ積極的に何も食べないで登山をして、人間としての対応力を鍛える、そういうのが登山ではないかとも考える。)天気予報も精度が高まって夏山の2日間の予報はかなり正確である。(とはいえ、山はで下界とは違って雲が湧き雨が降ることもあるが)防寒具を兼ねて雨具があれば良い程度である。
水に関してもコース途中の水場の有無を考え、コースタイムとの関連で必要な量を計算すれば良い。ただし、夏場と春秋では倍以上必要量が違う事は考慮に入れる必要がある。食料も小屋がある所では小屋に頼れば少量のおやつで済む。(錆鉄人は平地の数倍の物価に対応出来ないから食料を持って行くが、大抵はパン3つ350円位である。)このようにすれば、装備はかなり少なくなるので、ザックも一回りも二回りも小さなもので済むので、ザック自体の重さも軽くなる。小屋泊まりなら最低5kg程度で収まるのではないだろうか。
防寒具は不要
→寒さに耐える我慢強い意思と鍛錬(錆鉄人は5月から10月までの白山登山は短パンにTシャツであった。御来光を迎える時もその格好でいた。)寒さに負けずに動き回っていれば良い。
非常食料・ビバーク対策は不要
→必要な場面に至らない行動力(錆鉄人は時には3日分の距離をコースタイムの半分で歩きます)と精神力(足が1本位骨折しても歩けると思っています。強烈な捻挫をしてからでも磐梯山を登って来ました。)
雨具は不要
→雨が降りそうなときは登らなければ良い。もし降っても歩き続けていれば、どうって事はないものである。夏の雨で雨具をつけると、いくら高性能のゴアテックスでも汗をかいて下着からズブ濡れになるのだから全く意味がない。雨の時は登らない、降っても着ないと考えれば必要ない。
休憩は不要
「50分から1時間歩いたら10〜15分は必ず休みましょう、それがバテない歩き方のコツです。」と大抵のガイドブックに書いてある。本当だろうか?休憩した後足が軽く感じるのはほんのしばらくで、嫌になるほど足が重く感じた経験は1度ではない。登山は休憩が目的ではないのだから、休憩は不要なのである。見たい景色の所で立ち止まり、水は歩きながら飲めば良いのであって、なんら定期的に休憩を取る必要はないと錆鉄人は考え、実行しています。
登山の常識は非常識
ここまで読んで、少しは常識通りではなくても良いと考えたあなた!錆鉄人病に感染してますよ。あくまでも自己責任で実行願います。錆鉄人が言いたいことは、高価な装備をそろえて自分の弱さを補うのではなく、強い肉体と精神力をこそ「装備」して山に登ろうという事です。健康的な日常生活を送り、強い肉体と精神力を身につける、それが登山という趣味の本来の姿ではないかと思います。

10.税金の無駄遣い その3
11月13日夫婦で白山に登ってきた。この次期、白山は完全に冬山の季節であるが、今年の暖冬傾向による小雪が予想される上に、当日の快晴が予想されたので数日前から行こうと考えていた。前日はかなりの雨も降ったが、Yahooの天気予報で白峰村の天気を見て、気温(日中は15℃位だった)からいって日中の降水は雪にはなっていないだろうと想定し、夜はほとんど曇りの予報だったので少量の雨が降っていてもラッセルしなければならない程の雪はないと確信し、登山の準備をして寝た。そして翌朝5時に起きてWebで天気予報を再度確認して、10時頃からは晴れるという確信を持って家を出発した。ここまでは本題とは違うが、安全性をちゃんとチェックして冬の白山に登っていますよという説明である。楽なルートの砂防新道への吊り橋の踏み板が取り外されていて通行止めになっている事はホームページを見て知っていたので、ちょっと険しい観光新道を登って下りた。
いよいよ、本題の税金の無駄遣いである。
観光新道の両側は谷であり、かなり侵食されている。両側のその谷に、ズラリ!と砂防ダムが並んでいる。数えはしなかったが、両側でざっと50〜60はあった。恐らく、何百億円というお金がつぎ込まれているのは間違いない。これは何の目的でやっているのであろうか?初めて白山に登った28年前にもすでにこの工事は行われていた。そして、これだけ数が増えたのでる。砂防ダムは全て土砂で埋まっている、造るハナから埋まるのは目に見えている、そこに堰堤があって埋まった分の土砂で崩壊を防ぐという効果を僅かには謳うことが出来るかもしれない。が・・・崩壊している谷全体からみると、間違いなく微々たる効果しかないと言える。

第一、崩壊した所でだれが被害をうけるのか!誰もいないではないか!崩壊した土砂が土石流になって地元の白峰村を襲うという「脅迫」が行われているとしか思えないが、別当出合から白峰村の家屋がある所までは10kmほどもあって、その流れは緩やかになっているので、土石流も大半は途中で堆積してしまうことはほぼ間違いない。それでも毎年、流れてくるのだから、いずれは押し寄せて来ないとは言えないが、毎年その土砂を取り除いて建設用の砂利の材料にすれば良いのである。しかし、どういう利権と結びついているのか分からないが、川の砂利などはそのような目的に使用出来ないようであり、山を崩して岩を運んできて砂利を造る砕石場が至る所に出来ている。
白山にどんなに砂防ダムを造っても、すぐに埋まり、川下へ土砂は流れてくる。白山ばかりではなく、日本中似たようなものである。今の日本の河川行政では、必然的に堆積土砂による川床の上昇があり、洪水の危険性は増す。従って堤防のかさ上げが必要となるが、いったんその堤防が決壊したら被害は甚大なものになる。
溜まったものを取り除き、有効利用する事がなぜ出来ないのか。政治家と行政は間違いなく洪水の危険性を助長している、それは確信犯だと思う。
去年(03年)スイスのツェルマットやグリンデルワルトに行ったが、同じような、あるいはもっと険しい地形にも係わらず、このような不要なものはなかった。ツェルマットの下流で大規模な崩壊が起きて巨大ダムが出来て決壊したら下流で大被害の恐れがあったために軍隊が出動してトンネルを掘って対応したという解説もあったが、山の上まで続く砂防ダムなどなかった。ツエルマットの上流の広い河原では堆積した砂利の処理が行われていた。その為か川はいつも白く濁っていた。

10.JAPAN
スポーツで「JAPAN」というとサッカーの日本代表である。
ワールドカップの一次予選の最終戦(11月17日)をテレビで観戦したが、・・・失望した。一次予選突破が決まっているのでサブのメンバーが中心だったという以上に失望した。それは、選手ひとり一人のチャレンジ精神が欠けていることであった。ボールを受けても前に相手が来ると簡単に後へ戻す、横へパスするの繰り返しで、最終的には前線へロングボールを放り込み相手にボールを奪われる、というのがおおかたの解説になると思う。これまで勝ち上がってきたトップ選手によるゲームもやっていることは似ていて、後のほうで回す安全策ばかりで、はっきり言って見ていても面白くない、得点の確率の低いゲームプランだと思う。スピードに乗ったワンツーの交換で一気に相手を抜き差ってゴール前に向かう、というような胸のすくプレーが全く見られない。これは、日本人の中では比較的優れた能力の中田英や中村俊のキラーパスが得点を生んで来たからと言えるかもしれないが、今回のようにある程度守りを固めた相手にはスペースがなくてキラーパスも出すところがない、そのうち後で回している所を奪われて失点という様子が目に浮かぶ。いろいろな攻め方があるからこそ、キラーパスのチャンスも出てくるのであり、このようなワンパターンでは相手も対応がやり易いという事が証明されたように思われる。
ジーコは選手の創造性を強調しているが、ゴール前にボールを運ぶという得点を取るための大事なゲームプランが全然出来ていない。自分はこのままでは、本選出場は苦しいと思っている。ジーコの天才があれば創造性が発揮出来るが、はっきり言ってJAPANにその能力があるように思えない。一次予選で1点しか取られなかったから、組織としてはまとまっているという考えもあるようだが、このレベルだったからであり、組織的な攻撃がない。そういう意味でジーコは監督失格であると断言したい。(Jリーグの発足以来、ジーコが日本のサッカー界に対してしてくれたこれまでの貢献には大いに感謝したいと思う。)
二次予選で日本の苦戦は続くと思われ、錆鉄人は試合を見ながら胃が痛むことだろう。
頑張れ!日本!

9.IT社会と言うけれど
Tをイットと読んだ人が旗振りして「e-ジャパン構想」というものが作られ、「世界最先端の情報国家を創る」という旗印のもと、それまでの土建屋と政治家の癒着に対してようやく腰を上げたマスコミの後押しもあって、公共事業予算の削られた分が注ぎ込まれている。その実態はと言うと、一端を垣間見られる立場から見ていると、少しも進歩していない。不要な道路の掘り返しを毎年やっていたのと同じ、いやそれを上回る愚行をしているとしか思えない。
その最たるものは、遠隔医療というものである。たった数十人の独居老人をインターネットを使って体調管理する程度のために軽く10億円位の予算が使われている。研究開発という名目であるが、それが全国で2ヶ所や3ヶ所ではない。そして、それはこの情報機器というものの宿命で3年も経てば馬鹿みたいな役に立たないものになっている。それこそヘルパーが毎日訪問して「フェイスツーフェイス」で介護したほうが老人にとってははるかに良いに違いない。そして、それは地域の雇用の拡大にもなる。しかし、地方こそ政治屋というかボス的存在が幅をきかせ、我田引水するために膨大な税金を無駄遣いさせている。ITという名目の無駄遣いは嫌になるほど多い。癒着先が土建屋から代わっただけである。(土建屋との癒着はそのままだから癒着先の多様化というべきかもしれない)それはまた述べる時があるかもしれない。
ITばかりではない。
同じく「研究」とか「先導的役割」とか「教育的効果」という名目で、全国津々浦々にデクノボウが建っている、並んでいる。
曰く、雪が積もって効率の悪い地域の太陽光発電(実は錆鉄人も市民発電所の会員として5万円を出して太陽光発電所を造った。一市民でも環境について考え行動しているという事を示し、運動の渦をひろげようという考えであった。都合の良い日照データを持ってくれば裏日本でも表日本と余り違わない発電が出来ると詭弁を弄することは出来る、が、常識でも分かる)。曰く風の弱い地域の風力発電。(福井にも山の上にあるけど・・・。福井は日本の中では相当風の弱い県である。さすがに山に上は平地よりは風が強いが、償却出来るだけの発電が出来るとは思えない。風が強い冬場は着雪によって羽根がアンバランスを生み壊れる恐れがあるために回転させられないのではないかとも思う。県は発電実績を公表すべきであると思う。)「行政だから採算に合わないことが出来る」という馬鹿な説明もあるようだが、700兆円(隠れ借金を入れれば1000兆円?)の借金をしている事を考えている人はいないようである。返す言葉もない。
これら全てが、情報を公開していないから出来ることだと思う。

8.ゆとり教育論または教育亡国論(2)
10月終わりごろだったろうか、ゆとり教育を見直し全国共通の学力テストを復活させる案が検討されていると新聞かなにかで読んだ。
錆鉄人は「あったりまえでしょう!」と言いたいが、厳しい入進学競争によって子供に無理な負担がかかっているとか何とか、反対する似非学者・似非教育者がたくさんいるに違いない。もうずっと前から小中学生の自宅での学習時間は先進国で最低レベルである。しかし、「厳しい入進学競争によって・・・」と声高に叫ぶ似非学者・似非教育者にマスコミも追随し、ほとんどの人は青少年の非行化や凶悪犯化もそのせいだと思っているらしい。それは耳ざわりの良い言葉である。人間総平等論を唱え、競争に負ける子供を作らないためには競争をしないことが当たり前になった。体育会でも個人に順番の付く競技は消滅しているようで、競争というものが義務教育から欠落してしまったようである。お互いに競争しあいながら能力を伸ばすという事がないので、彼らの体力は落ち続けている。
果たしてそれが正しいのであろうか。競争は生物の真実の姿なのではないだろうか。ダーウィンの成長論(例外もあるようであるが)で習ったように、環境に適合したものだけが生き延びられ、激しい競争に勝った優秀な雄だけが雌と交配して子孫を残し、そのようして優秀な個体が選抜されていく。日本の実社会に競争がなく、世界の実社会でも競争がない極楽のような社会が実現されているならば、それで良いのかもしれない。しかし、グローバル化の波は高まり続け、今の子供達が実社会に出る時には、世界中の同世代の人達と競争しなくてはならない時代になっているに違いない。いや既になっていると言えるだろう。競争というものを知らない(=競争する能力さえ持ち合わせていない)日本の子供達がその競争に巻き込まれた時、太刀打ち出来るはずがなく、そういう教育をしてきた大人達を恨むに違いない。
海外勤務をしていた日本人が帰国しても、子供はそのまま外国の学校に残してくるという話を聞いた、日本の教育レベルが低すぎるからである。また、アジアの学生で日本の大学に留学する人が少ないのも、やはり大学の教育レベルが低すぎるからだという話である。欧米の大学院は、同様な理由で日本人の大学生を受け入れないようになっていると聞く。このように日本人総平等論による日本人総白痴化は確実に進行しているようである。
これで得をしているのは誰だろう?グローバル化が進む前は、これを画策したに違いない一部の金持ちや政治家にとっては、自分の子女が日本国内で幅をきかせる為の有力な手法だったのではないかと思う。
何故、競争に負けることだけを考えるのだろうか。負けないように努力すること、それでも負けたらもっともっと努力すること・工夫すること・負けないものを見つけること、それがその子を本当に生き生きした人生をおくらせてくれる力になるに違いないと考える。勝つ者は常に一握りでしかないが、人生の勝利はそれで決まるわけではないという事こそ教えるべきではないだろうか。(勿論、人生を勝ち負けなんかで考えることはないのですが)錆鉄人は今までそれなりに努力し、時には死ぬほど一生懸命仕事もしてきたが、大金持ちになることも勲章をもらうこともないのは断言できる。しかし、家庭に帰れば天女とのほのぼのとした生活があり、満ち足りた幸せを感じている。欲はなく決していからず(短気なので良く腹を立てているが・・・)の世界である。某大手会社の副社長が60過ぎで亡くなる前に、「こんなもの(大企業の副社長)になるべきではない。」と言って死んでいったと聞いた。仕事・仕事で家庭の団欒もなく、やりたい事も何一つせずに人生を終えたらしい。
この社会に競争はある、絶対になくならない。その競争の勝者は常に少数で大部分は敗者である。ならば負けたとき・勝てないときの生き方・考え方をこそ教えるべきではないだろうか

7.税金の無駄遣い その2
車を運転していて、こんな無駄なことは止めて欲しいと思えるものが増え続けている。
それは、通常の道路と交わる小さな道路(大半は田圃道のようなもの)がある交差点と呼ぶ必要もないような所のブロックや道路の隅に点滅するランプが設置されている事である。そこに1日数人が通る程度の道路がある事を知らせているのであろう。そこに交差点があることを知らせれば運転者から安全になるという錯覚であろうか、誰も自分のお金で設置するのではないので、あそこにあるのならここにもと要求するであろう。あってもなくてもどうでも良いものは、ないよりはあったほうが良いと考えるのは普通の人間の感覚であり、それをうまく利用して無駄なもの・不必要なものに税金が使われてゆくのである。
この点滅ランプを初めて見た時、錆鉄人は何だろうと思って注視していて、逆に横にいた自転車に接触しそうになった。この点滅ランプがあるからといって、そこをいちいち徐行していたら自転車よりも遅くなってしまうから、誰も気に留めない。しかし夜間はかなりチカチカと目に飛び込んでくる、人間の目はそういうものに反応するので、目立たない歩行者がいた場合には点滅ランプにかき消されて視界から消える可能性が高いように思われる。かえって危険なものであるのはほぼ間違いないが、この道路の赤カビもまた繁殖を続け棲息範囲を急拡大している。
1ヶ所の設置に最低数万円はかかっているが、さらにバッテリーは定期的に交換しなければならない。業者と道路族議員にとっては「おいしい仕事を創造した」ことになる。このようにして我々の税金はまたしても無駄なことに使われ、その何割から彼らの懐に入って行くことになっている。そして国の借金は積みあがって行く。
【参考:借金時計

6.ゆとり教育論または教育亡国論(1)
ここ10年以上、ゆとり教育というものが義務教育を支配していた。
でもそれよりもずっと前から(いつから始まったかは知らないが)教科書の内容の空疎化が始まっていた。錆鉄人が小学生や中学生だった頃に使った教科書に比べて内容が全くないことに気が付いたのは、自分の子供が中学生の頃、知人から頼まれて中学生の勉強を見てあげた時であった。一番大きな変化に驚いたのは理科の教科書だった。理科の有名な原理や化学変化、さらには植物の花びらの数まで「調べてみよう」とか「考えてみよう」としか書かれていない。勿論、授業で説明されるのかもしれないが、いえ絶対に説明されるべきではあるが、まともな授業が出来ない教師がたくさんいるという話や授業崩壊の話を聞いた時、本当に授業で教えられているのかどうか分からない。生徒が授業でノートに書き写したとしても、その重要性を認識しているわけでもないので、単なるメモや雑談と一緒になって埋没してしまう生徒が半分はいるに違いないと思った。しかし、その内容は確実に試験に出るのであり、「参考書を買って勉強し塾に通って補習しなければ、高校にも入れない」という教育のしくみが巧みに作られていたのであった。
これで得をするのは誰かは明白である。参考書の出版社や塾の経営者であり、その裏にいる文教族とかいう政治屋である。しかし、これには言い訳が準備されている。単に書いてある事を暗記する勉強では創造性が生れてこないと言うのであった。しかし、そういう教育をすれば創造性が生れるというのは、実はこじつけ以外の何物でもない。実際は誰も本当に調べてもいないし、考えてもいなくて、参考書を調べ塾で習うだけであり、すり替えられているのである。
ニュートンも・・・・・・アインシュタインも、もともとそういう素質があったから何にでも疑問を感じ、自分で考え思索を深めて大発見をしたのであって、自分を含め我々の周りにいる誰もがアインシュタインになれるわけではないのである。あるいは偶然もあるだろう。しかし我々の大多数は普通の人間なのであり、そういう先人によって発見され受け継いできた真理や原理や技術を覚えて応用することを身につければ良いのである。まさに人類はそういう積み重ねで現在の文明というものを築いてきたのである。繰り返して言うが、理科の原理や法則は、たとえアインシュタインであっても良い教科書というものがなければ全てを考え出せる訳ではなく、従って相対性理論の発見にも至ることは出来なかったに違いない。
教科書で勉強が出来ない、自習が出来ない日本は、世界の中で間違いなく学力レベルが低下して行くに違いない。今は少子化と高収入によって教育への出費が行われているから急激な学力低下は起こしていないのだと思う。しかし、崩壊は目前に来ていると思われる。
錆鉄人が小学生や中学生だった頃、新しい教科書を開くことに喜びがあった。新しい知識が一杯詰まっていて、読むことによって「知る喜び」を感じた。娯楽が少なかったこともあるが、社会の教科書などは春休みのうちに読み終えていたし、夏休みには姉の教科書を読んでいたものであった。今の理科の教科書は教科書に値しない。いつだったか忘れたが、数学でもπを3.14ではなく3と覚えさせるとかいうニュースもあった。それだけ計算能力も低下しているという事もあるだろうが、嘆かわしい自体である。
ちなみに某国では単純な計算は電卓でさせているそうである。「考えて見ましょう」より余程合理的だし、浮かせた時間で本当の教育が出来るのではないだろうか。

5.税金の無駄遣い その1
車を運転していて、こんな無駄なことは止めて欲しいと思えるものが増え続けている。
数年前から道路上にはびこってきたV型のペイントだ。能書きによると「さる大学の偉い先生」が考え出した画期的なアイデアで「カーブの手前にこれを設置すれば、目の錯覚で道路が狭く見えてブレーキをかけてスピードを落とすので安全になる」のだという。某ペイント会社が実際に実験して平均速度が低下したという学術的な記録もあるらしい。確かに実験の時、このペイントがある所を初めて走った人はビックリしてスピードをゆるめたのは事実かもしれない。しかし、オオカミ少年と同じで、すぐにあそこにもある・ここにもあるというペイントに反応するドライバーは皆無となっている。したがって、何の効果もないことは誰の目にも明白なのであるが、その後もこの道路の「白カビ」(カビ以外の何物でもないと断言出来る)はその後もはびこり続けて棲息地域を拡大している。
ペイント屋さんにとってはこんなおいしい仕事はない。道路の横のペイントやセンターラインは滅多に車輪に踏まれないから1年に1回、普通は春先に塗り直すしか仕事はないが、これは毎日何千台という車がその上を通過するのであっという間にペイントは消えてしまう。従って1回これを仕事として認めさせれば、1年に何回でもおいしい仕事が繰り返されるわけである。
当然、ペイント屋さんが「これはオオカミ少年と同じだからもう効果はない」という逆実証実験をする筈は無いので、最初の能書きだけが一人歩きしているのが現状だろうと思われる。錆鉄人の通勤途上にもこれが数箇所あるが、ほとんどの車は70〜80kmでビュンビュン走り去っている。大したカーブでもない場所である。
このカビは今後も増殖するのは間違いないと思われる。一応「安全」という大義名分が付き、裏ではペイント屋さんからの献金があり政治屋さんが動いて仕事を作る、1回作ったものは永久に続けるのがこの国のならわしらしく、予算は毎回拡大し、政治屋さんとペイント屋さんが大いに潤うという構図が出来ているのは間違いない。
この道路の白カビの粉末、大量に吸えばやはり発がん性があるのでは?大問題になったダイオキシンよりは、はるかに大量に浮遊しているだろうから、危険性という意味ではよほど危険なのではないか。(ちなみにダイオキシンは非常に毒性が強いが、非常に微量しか発生しないので、本来は危険でもなんでもない。しかし馬鹿なマスコミが大騒ぎしたのでみんなが過剰反応しただけである。これも焼却炉の改修とかで「兆」を越える税金が使われた・・・。これについてもいずれ何か書いてみたい。)

4.再び野球を問う
日本の大衆娯楽として絶大な人気を誇り、かって男の子はみんなプロ野球選手となることに憧れた。その夢がかなわなかった親が、今度は我が子をプロ野球選手に育成して、あわよくば大金をせしめようと必死になっている。松井やイチローなど成功物語も豊富である。
したがって、少年野球チームはいまだに盛んである。甲子園は相変わらず1試合残らずNHKで放送される。高校野球の監督はみんな「教育」としての野球を語る。
・・・・・・?
我が家は娘2人だったので少年野球とは無縁だったが、娘の同級生の練習や試合を見に行ったことがある。もっとも感心したのが、練習試合の攻撃時に全員が声をそろえて相手のピッチャーや野手をヤジることだった。そして、相手がミスをするとすかさずヤジって動揺を誘い、エラーをする事を期待する・・・
これって真っ当な教育なの?スポーツなの?
こんな小さい時から勝つためには手段を選ばない卑劣なやり方を教育された彼らの行く末を案じると共に、それまで疑問にさえ思わなかった野球の全てが問題点として見えてきた。
こんな少年野球でも下手な子は球拾いしかさせてもらえないらしい。うまい子との差はさらに開くばかりである。うまくなりたかったら練習が済んでから自分でやれというのが野球の掟らしい。美談として語られているが、勉強などする暇がなく野球馬鹿が大量生産されることになる。知人の息子が中学の野球部に入っていて、3年間球拾いだったと聞いた。親は球拾いを3年続けた事を感動していた。監督が最後の練習試合に代打で出してくれたらしい。自分も聞いて感動したが、彼にはもっと違った3年間があったはずで、そのほうが彼の為になったに違いないと思う。ある意味で確かにすごいことではある。誰も彼の事を気にも留めてくれず、道具として扱われた3年間。グランド整備や道具の整備でまともにトレーニングもしていないのではないだろうか、従って体力さえ付かなかったに違いない。自分ならもっと彼の能力を伸ばせる分野を一緒になって考えてやって、本当にその子の為になる生き方をさせてやったと思う。
似たような話をテレビでも見たような気がする。確かに野球には球拾いも必要だろう。でももっと違ったやり方が出来るのではないだろうか。読売巨人軍は特別ムチャクチャではある(何十年も前から一貫して汚い事をし続けてきているのに、一番ファンが多いというのは理解出来ない所である。汚職議員が再選されるのと同様に、日本人は悪者に対して寛容なのだろうか?)が、日本の野球はあらゆる所が狂っているように思える。少年野球で見たものはその縮図だと思う。

3.野球はスポーツ?

近鉄とオリックスの合併問題からスト突入、ライブドア・楽天の参入表明と日本のプロ野球界はゲーム以外の所で盛り上がっている。それらを含めて錆鉄人は野球には大して関心がない。それは日本のプロ野球というものをスポーツとして評価していない(評価出来ない)からである。
昔は錆鉄人も野球のファンであったが(ほとんどそれだけしかなかったからでもある)大学生の時、考えが変わった。大学ではボート部に入った。決して強くはないボート部であったが、それなりのトレーニングを毎日していた。ところで、プロ野球である。新年が来ると有名なスターの○○選手が自主トレを始めた・・・、キャンプインしてこのような練習をした云々・・・。「エーッ!そんな練習しかしないの?」「あんた達プロなんでしょう!何億円ももらっている」・・・
そして公式戦が始まると、
外野を抜けた当たりにセカンドを回った所で足がもつれてひっくり返る。ひどい場合は捻挫して何週間も公式戦から離れる。
「プロなんでしょう!何億円ももらっている」
相撲取りのような体で、ヒット性の当たりでも悠々1塁でアウト。それでも、またまた足を捻挫して長期リタイヤなんて・・・。
「あんたプロなんでしょう!何億円ももらっている」
こんなことが目に付いてくると、野球なんか馬鹿らしくて見られたものではない。
それでも昔野球ファンだった錆鉄人は、アンチ巨人なので巨人が負けている試合はテレビをつけることはあるが、試合は見ていない、ワーと騒いだあとの結果を見るだけである。解説者がここは内角高めの速球で・・・などと言うのも邪魔なだけである。だって、狙った所へ投げられない事は筋肉大陸で良く解ったではないか。「全力で振ったからポテンヒットになったのです」とか解説者が言う。「????」もう言う言葉がない。この解説というものがなければ、まだ野球は見られるかもしれないと思う。
「気持ちで打ちました」とか良くインタビューに答えている。
「おいおい、プロなんでしょう。毎回気持ちを込めてプレーしてよ!」
しょせん、日本のプロ野球は戦後の高度成長に乗ってきただけの「キワモノ」であるとしかいいようがない。いや、キワモノになったのかもしれない。(勿論、その全てがキワモノとは言わない、イチローなどが良い例ではある。)日本のプロ野球はプロとしての努力・誇りを忘れてしまっているのである。
最近は大リーグのほうが面白いという人がいるが当たり前である。大リーグには力とスピード、本当のスポーツがある
けれども、しょせん野球は実際には1ゲームで数分しかプレーをしていないゲームである。それを数時間かけて見る忍耐力を錆鉄人は持ち合わせていないのであった。

2.テレビ
テレビこそは嘘のかたまりである。時々「やらせ」がニュースになるが、テレビに真実があると思うほうが間違いである。
最近もテレビタレントによるクイズ番組があった(見ようと思ったわけではないが、見たい番組がなくてチャンネルを切り替えていたらやっていただけである)が、その中で、スポーツ新聞の1ヶ月分の見出しタイトル当てや日本にある世界遺産に関連したクイズに答えていたが、「エ!そんな事覚えているはずがないやろ」という内容ばかりであった。事前に暗記したのでなければとても答えられるはずがない。「あなたにはこういう内容に関してクイズをしますから関連した事を覚えてきてください」というのならまだ可能性はあるが、忙しいタレントがそんな無駄なことをしている暇があるはずはない、「これが答えだから収録前に暗記して答えなさい」という内容そのものであった。いや見えない所に答が出ていて、それと解らないように見て答えていたのかもしれない。
ここまで見た所で胸がムカムカしてチャンネルを切り替えたが、見たい番組はなかった。

1.新聞記事
前の会社にいた時、地元紙の記者を呼んで度々新製品の発表会をした。社長はほとんどが嘘の内容の製品説明を行い、でたらめな製品単価と販売数量を発表し、記者はそれを忠実にメモしている。帰りには足代としてそれがしの金を包んで渡していた。(早い話が賄賂である)果たして、数日後に新聞に記事が出て、嘘の内容の製品説明と、でたらめな製品単価と販売数量がそのまま記事になっていた。何も知らない一般読者は「へェー!またO社はすごい新製品を開発したんだ!」と思うのであろうが、内部事情を知っている自分はただただ恥ずかしかった。
それ以来、新聞の記事なんて無知な新聞記者による聞き書きでしかないのであり、誰が死んだという事位しか信用出来ないものであると解った。実際、日本の代表的なA誌とY誌を読み比べると、内容が違っていることが良くあるものである。無論、A誌とY誌で天気予報が違っていることは「予報」であるから違っていて当たり前ではあるが・・・
「新聞なんか嘘ばっかやで信用したらあかん」と妻に良く言うのであるが、妻は天女であるゆえに疑うことを知らない。
新聞を信用出来ない錆鉄人は不幸な人間である。(錆鉄人を日本人、人間を国民と読み替えてください。)

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