百名山全山日帰り達成
錆鉄人の汗動登山
 「金無し暇無し休憩無しのヒーヒーハーハー登山」

  古来、山は「神聖な修行の場」でした。
  錆鉄人も
「登山は怠惰な日常生活から肉体と精神を覚醒させる修行の場」だと考えています。
  従って錆鉄人はいつも一生懸命、激しく汗を流しながら全力で山に登ります。
  だから汗動登山
。だから感動登山!
        <山登りは山への負荷が少ない日帰りが一番だと思います>


   04.11.06 夫婦合計百名山100山登頂達成天女41錆鉄人60 合計100達成)
   06.09.30 百名山完登(錆鉄人)
   06.10.09 日本初の百名山全山日帰り達成(錆鉄人)
  百名山全山日帰り五輪の書
   月別登山一覧表  登山関連厳選リンク  ETC装着のお勧め  錆鉄人の登山五輪の書

錆鉄人の登山記に対するご注意
錆鉄人の登山スタイルは、短い休みを最大限に生かす「夜行日帰り」
今や翌日に限った場合、天気予報はかなりの精度なので「晴天の日の日帰り登山」と限定すれば、ザックはかなり軽く出来ます。後は絶対に休まないと大汗をかきながらひたすらヒーヒーハーハー登り続ければ、コースタイムの半分で山は登れるのです。そうすれば、大抵の山は日帰りで登れる事になり、山に大きなダメージを与える「排泄」という置きみやげをしなくて済むのです。
このようにいつでも一生懸命に全力で脇目もふらずに(写真を何十枚も撮りますが・・・)頂上を目指すのが錆鉄人流の登山スタイルです。(と意気がりたいのですが、実際は金も時間もないからこうするしかないのです。)
従って錆鉄人の登山はほとんどが「超長時間ドライブ+2日分の登山を1日に短縮」になっています。
登山を2倍のスピードで行うためには
2の2乗(=4倍の時間当たりのエネルギー供給)÷2(=時間半分)×2(=2日分)=4倍の行動エネルギーが必要で、さらに超長時間ドライブを続ける脳のスタミナが必要なので、これを実行出来る人は日本中を捜してもほとんどいないと思います。つまり、「錆鉄人の登山を真似るという事は自殺するに等しい」という事を認識して、絶対に真似ないで下さい。
「コースタイムの半分で登山して何を見たの」と言う人がいます。
確かに見逃してしまったものもあるかもしれませんが、酒とタバコの怠惰な生活で突き出た腹をして、僅かばかりの体力でフーフー登っている登山者に、登山道の脇に咲いている高山植物が目に入るとも思えません。度重ねる休憩でも景色を楽しむ余裕があるのでしょうか。僅か数時間あるいは1日長くその山にいたからといって、その山の全て・春夏秋冬・365日・悠久の時間からすれば「差」はありません。
むしろ早く登ったがゆえに眺望があったという事もありますが、最高の瞬間は写真やビデオ・DVDで見られる時代にあって、それも大きな差ではありません。従って多くの人は「単に百名山の頂上を踏んできただけではないか」と言いますが、それらの人も「実際にはそれだけ、あるいは大差がない」という事に気が着いていないのです。錆鉄人は「自然に感動するばかりではなく、自分自身の頑張りに感動出来る登山でありたい」と思います。
誰もがその山の最高の時を目がけて登るから、尾瀬のようなオーバーユースの問題も起こるわけです。錆鉄人のようになるべく人が登らない季節・時間に登って、それらはDVD等を購入して日本の景気を良くしましょう。(錆鉄人はビンボーなのでWebで探しますが・・・)


「急ぎ働き登山」家元
このように錆鉄人の登山は、他人が油断している(寝ている・休憩している・食事している)時にも動き続けて、素早く頂上を盗み取り駆け戻る。まさに鬼平犯科帳の「急ぎ働き」の世界です。

2000年以降の登山一覧表(11月20日リンクミス修正しました)
月別 登山一覧表
  特に白山は4月から11月までの登山記録があり、残雪・花・紅葉・新雪の様子が分かり、参考になると思います。(4月・5月・11月の白山登山のページは滅多にないと思います。)

【特集 : 感動?の登山記】
無謀な挑戦の好きな錆鉄人ですが、日本一の愛妻家なので、この素晴らしい(無謀な)登山に愛妻を連れて行くのでした。
ヘトヘト・ニッコリ・ヘトヘト悪沢岳(妻を気遣う?錆鉄人のやさしい心に共感多し) 
日本山岳耐久レース本番編(ストイックな錆鉄人の挑戦に思わず爆笑。馬鹿の感染にご注意!)
錦繍織り成す紅葉の涸沢(結婚20周年記念旅行はヒーヒーハーハー涸沢日帰り)

特集 : 錆鉄人自慢の?怪記録
錆鉄人の登山は普通1泊2日のコースなら日帰りしているので、家を出発して戻るまでを含めて体力的にはかなりハードな内容です。
【錆鉄人単独】
・前夜発(車中泊)で越後駒ケ岳・巻機山2山を日帰りしてその日に帰宅(コースタイム合計21時間、2山間移動2時間、
・前夜発(車中泊)で飯豊山(本山)日帰り、その日に帰宅(コースタイム16時間、車片道6時間)
・前夜発(車中泊)で新穂高から鷲羽岳・水晶岳の日帰り、その日に帰宅(コースタイム21時間、車片道4時間)
・幌尻岳・戸鳶別岳日帰り(コースタイム18時間40分)天人峡からトムラウシ日帰り(コースタイム19時間05分)を2日連続実施(2日のコース田無合計は37時間45分)
・前夜発(車中泊)で畑薙第一ダム−林道自転車走行−椹島−悪沢岳−赤石岳−椹島−林道自転車走行−畑薙第一ダムを日帰り、そのまま帰宅
などを実行しています。
【天女と一緒】
前夜発(車中泊)1泊2日で折立−黒部五郎岳−三俣蓮華小屋(幕営)−鷲羽岳−水晶岳ー雲ノ平−折立=帰宅(娘に逢いにはるばると 黒部五郎岳
前夜発(車中泊))1泊2日で鳥倉林道−荒川小屋幕営−悪沢岳−鳥倉林道
笠ヶ岳日帰り
聖岳日帰り
光岳日帰り
五竜岳日帰り
剣岳早月尾根日帰り
塩見岳日帰り(鳥倉林道)
奥穂高岳日帰り(白出沢)
などを実行してきました。従って錆鉄人のコースタイムは山行の参考にはなりませんので、ガイドブックのタイム表と自分の体力やコンディションに合わせて考慮ねがいます。


錆鉄人の登山五輪の書(大作)
  ○登山に興味を持った人〜初級者の方に役に立つ登山便利帳を作っています。(一部未完成)
錆鉄人の百名山マイカー登山早見表(労作!)
  ○武生ICから登山口にもっとも近いICまでの高速道路の距離と料金、さらに登山口駐車場までの距離と
    登山の標準コースタイムが一覧表になっていますので、登山計画の作成に便利です。
    これを元に錆鉄人の登山スタイルである「前夜発翌日日帰り登山」の可能性を表にしてみました。
    (前夜午後6時から当日午後12時までの30時間で
    「行って、登って、下りて、戻って来て、翌日仕事をする」事が出来るかどうかを検討したものです。
    福井がほぼ日本の中心にあるので北海道と屋久島を除けばほとんど日帰り可能ですが、費用がかかりすぎるのが難点です。)

錆鉄人の登山の歴史(2001年以前)
(18)登ってみれば普通の山早月尾根からの剣岳(2001年9月8日)
早月尾根コースは標高差約2,200mで日本アルプス3大直登と言われている。
途中には早月小屋(標高2,200m付近)があるのみで水場さえもなく、コースタイムは登り8時間10分、下り5時間40分、合計13時間50分である。
剣岳に登りたいと思っても、立山室堂経由では日帰りは絶対に不可能で、しかもとても費用がかかる。そこで早月尾根からの日帰りを計画した。
ガイドブックには怖い岩場があると書いてあったが、そこが何処か分からないうちに頂上に到着した。

 

早月尾根からの剣
(17)頂上で2分に泣いた 富士登山競走(2001年7月25日)
3度目の挑戦となった今回は、妻も誘い込んだ。
聖・笠と登ったのも、妻の登山練習と高山病対策であった。この1年以上、全くと言って良いほどマラソン練習を行っていない自分と違って、走力のある妻なら時間内完走は出来ると思っていたのであったが、僅か2分で完走証がもらえず。自分は驚きの12分遅れ。ちょっとだけ走る練習をしていたら完走できたかもしれなかった。
疲れた身体にむち打って頂上から5合目へ戻る間中、妻はもう絶対出ないと繰り返した。
 
(16)リベンジ成功も魔の山 笠ヶ岳(2002年7月7日)
水晶岳・鷲羽岳などにも登りたいと思って新しい地図を買って調べたら、何のことはない。去年登ろうとした登山道は廃止になっていて、約1kmほど林道を遡った所に変更になっているではないか。
絶好の天気で槍・穂高はいうに及ばず、眺望抜群の頂上を「妻と2人で独占」した。帰りに小屋へ寄ると登山証明書をくれた。21世紀の17番目と18番目だった。
快調な登りだったので帰りは鏡池のほうを回ろうとしたのだが、下山口を間違って(稜線に「新穂高」の標識が落ちていたので、シーズン初めなので整備されていないのだと思って、そこから鏡平に行くものだと思って下ったが、後で地図を見ると廃道になっていた。)あわや遭難の憂き目に。自分にとって笠ヶ岳は魔の山だと思った。 

笠ヶ岳よりの槍
(15)霊が異変を知らせた?・・・聖岳(2001年7月1日)
便ヶ島駐車場で仮眠中、妻がおかしな夢を見た。長女が車に乗っていて、行くなと止めるのに聞こえないのか車を運転して消えてしまった・・・という内容であった。きっと長女の身になにかがあったに違いないと寝入りばなを起こされ、携帯で連絡しようとするが山の中なのでつながらない。翌朝、山の上からなら繋がるかも知れないと何度もかけてみるがやはり繋がらなかった。やっと飯田市の近くに戻って電話が繋がったが、娘には異常はなかった。しかし・・・
 

強風の聖頂上にて
(14)塩見岳は小屋掘り出し中(2001年6月9日)
はいや松風園での恒例の大学同窓生の懇親会の前に、百名山に登ってから参加しようという山行である。
まだ登ったことのない百名山で、日帰り、しかも午後2時頃までには駐車場に戻る事が条件であり、鳥倉林道から塩見岳に登ることにした。
途中の林の中、残雪で登山路が分からず彷徨ったが、どうにか突破。(帰りも自分の足跡が入り乱れているのでまたまた迷った。)
塩見小屋は雪の中から掘り出している最中であった。「まだ、ほとんど誰も登っていないから、石が浮いているので気をつけて。」と忠告を受けたが、特に危険なところはなかった。
 

掘り出し中の塩見小屋
(13)早春の夜叉ヶ池 池の上を歩いて渡る(2001年4月21日)
2週間前、夜叉ヶ池登山口駐車場への道路は除雪がまだで、かなり手前から歩いて行ったが、登山道は谷底まで一直線に雪で埋もれていて、夜叉ガ滝まで行くのがやっとで引き返した。
たった2週間で雪は大幅に消えていて、通過に命がけだった水平歩道ももほんの僅かに雪が残っている所があるだけとなっていた。
しかし、登るにつれて雪は深まり、夜叉ヶ池は雪に閉ざされていた。
 

雪の閉ざされた夜叉ヶ池
(12)早春の越知山 残雪に悪戦苦闘(2001年3月18日)
日曜日仕事に出ていたが、前日文殊山に登った山道具は揃っていたので、午前中で仕事を切り上げ越知山に登ることにした。
登山口にたくさんの車があったので、登山者がたくさんいて安心だと思ったのは勘違いだった。地元の人の集会があった為だったらしい。現れた雪にある足跡は一つ、しかも途中でその人は戻ってきたのであった。スパッツも持って来なかったが、独姑水から先を一人でラッセル。迷いながらも頂上へ。

殿池と御神木
(11)結婚20周年旅行は紅葉の涸沢強行日帰り(2000年10月11日)
結婚15周年でヨーロッパへ行った後、20周年はアメリカの大自然を見に行きたいと言っていたが、母が亡くなり高齢の父親だけを残しては行けないし、まして新しい仕事を立ち上げたばかりで、土日といってもほとんど休めない状態であった。
インターネットで涸沢の紅葉と天気予報をチェックして、混雑を避けてウィークディの10月11日に行くことにした。朝1番のバスで平湯から上高地に入って、ひたすら涸沢を目指してハーハーゼーゼー歩きまくった。涸沢はこの世の楽園のような美しい景色と澄んだ空気、おいしい生ビールの世界だった。
豪華なホテルも贅沢な食事もないけれど、一生の想い出に残る記念旅行だった。

パノラマ道から涸沢を望む
(10)初めての南アルプス、北岳・間ノ岳(2000年7月9日)
新しい仕事の立ち上げで、ほとんど休み無し(土日を含め半年で数日しか休まず、年間4,000時間以上仕事をした。)の朝8時から午後10時まで仕事をする生活が始まっていた。
金曜〜土曜にかけて関東を台風が通り抜ける気象状況であったので、台風一過の快晴を期待して土曜日は山行の用意をして仕事に出た。昼、インターネットで天気予報を確認し、予報より早く通過し天気が回復している事を確認。3時過ぎまで仕事をして出発した。
 

北岳頂上からの富士山
(9)笠ヶ岳旧道のワナ・雷雨の焼岳(2000年6月3日)
土曜日午後6時から芦原のはいや松風園で恒例の大学同窓生の懇親会があるので、それまでに戻れる百名山という事で、笠ヶ岳に登る事にした。金曜の夜、仕事が終わってから新穂高まで行って車中泊。ガイドブックに従って、登山道を捜すがなかなか見あたらない。やっとその辺りに踏み跡を見つけたので登り始めたが、途中でルートがなくなってしまった。ガレ場でファインディング中に転落までしてしまい、笠はあきらめて下山。焼岳に目標を変更した。その焼岳でも雪の上でルートを失ったが無事、登頂。
原因は持っていた地図が3年前のもので、登山道が約1km程先に移動していたのを知らなかったからであった。これ以降、地図は最新のものを準備するようになった。(持って行くだけでほとんど見ないけれど) 

濃霧の焼岳頂上にて
(8)百名山の大峰山大台ヶ原日帰り(2000年5月6日)
大学へ進学した長女はゴールデンウィークだというのに帰ってこないという。次女を誘ったが来ないというので、妻と二人で大峰山・大台ヶ原の夜行日帰りを敢行した。
山道の通行が楽なように妻の軽ワンボックス車で初めての長距離であったが、後席を折り畳んでフルフラットにした所にシートを敷き布団を敷いたら、ステップワゴンよりはるかに寝心地が良かった。
しかも高速料金は安く、燃費も14km/リットル程走った。懐にも地球にも優しい(ステップワゴンと比較すれば)山行であった。
 

八経ヶ岳頂上
(7)紅葉の夜叉ヶ池(1999年)
月に1回あるかないかの妻の土曜日の休みの日だった。娘達を武生高校まで送っていったその足で、紅葉を期待して夜叉ヶ池に登ることにした。
 
(6)マラソン大会出場後、荒島岳に(1999年10月10日)
この年辺りから百名山というものを意識して登ろうと考えるようになった。ただし、百名山を完踏しようとは思っていない。したいことが有りすぎる事と、時間が余りにもないからである。
10月10日、今立マラソンで10km走った後、妻(3kmの部で2位入賞)と荒島岳に登る事にした。スキー場の駐車場を出発したのは午後1時を過ぎていた。
頂上は風が強くほんのしばらくで下山、かなりの部分を駆け下りて駐車場に戻ったのはちょうど午後4時だった。(往復3時間弱)
 
(5)親子で山登り(1982年〜2001年)
親として子供にしてやれる事は、頑張った経験を積ませて自分に自信を持たせることだけだと思った。
だから、お盆休みはいつも山登りと決めていた。それは大人でも大変な長時間の山登りばかりだった。

83年(長女1歳10ヶ月)乗鞍岳
87年(長女5歳二女4歳)立山
88年(小1、5歳)西穂高岳独標
89年(小2、6才)富士山夜行日帰り
90年(小3、小1)白馬岳日帰り
91年(小4、小2)槍〜南岳(1泊)

高校の恩師(女性)がガンで亡くなられ、登山愛好家であった先生の登山靴を形見に頂いた。親子登山が出来なくなった今でも、妻と二人で年1回は山へ行かなければ、先生の靴が寂しがるだろうと思った。そして、その靴は今はワンゲル部に入った二女がはいている。
 

それぞれが大切な思い出である
(4)初めての縦走・・・槍から奥穂高岳(1981年8月14日〜16日)
10月に結婚したが、妻は3学期が終わるまで名古屋で先生を続ける事にしたので、離れ離れの生活が続いた。間もなく妻が妊娠し、予定日は9月10日であった。
お盆休みは3日しかなかったが予備日を入れると4日は欲しかった。当時勤務していた会社はなかなか有休を認めてくれなかったが、何度も頼み込んでどうにか認めてもらって、槍〜穂の縦走に出かけた。
1日目の槍は快調だった。2日目の槍ヶ岳山荘から岳沢ヒュッテまでの道のりは長く、靴擦れ製造登山靴のおかげで両足のかかとは大きく皮が剥けていた。重太郎新道の下りではくたびれ果てて、何度も腰を下ろして休憩しなければならなかった。5時頃やっと岳沢ヒュッテに着いて宿泊。寝た場所は廊下だった。
翌日は上高地を散策した後、西穂山荘まで登ってロープウェーで新穂高に下りて車で帰った。
 
(3)上高地でキャンプ(1980年5月)
5月31日(土)、勤めていた会社はまだ土曜日の休みはなかったので有休を取って(この1日の有給を取ることさえ大変な会社だった.。)妻(結婚前)が勤務していた名古屋の港西小学校へ向かった。12時過ぎ、土曜日の授業が終わって出てきた妻を乗せ、中央高速に乗って松本経由であの「釜トンネル」を通って上高地へ入った。(当時はまだマイカーで上高地に入れたのです!)
新緑の小梨平は気温も適当で、夜間に小雨があったが、清々しくて気持ちが良かった。
 
(2)妻と初めての山行(1980年5月)
妻とは3月に見合いをして4月1日に結納をした。五月の連休で帰ってきた妻(当時は結婚前)との初めての山行は、ミズバショウで有名な取立山だった。
谷峠に車を停め、準備万端で残雪の稜線を進んで取立平に着いて、いざ焼きそばをしようと思ったら、何とソースがないではないか。
この頃から、何かを忘れるクセがあったのかもしれない。

 
(1)妻と出会う前の山行(1970年〜)
初めて自分の意思で山に登ったのは、高校2年生の時の富士山であった。(原付バイクで中部地区を一周した。)

大学を卒業してから青年団に入ったが、女の子と仲良くなるという不埒な目的を持って、仲間数人と一緒に山登りのサークルを作った。動機は不純だったが、結構まじめで冠山や取立山、夜叉ヶ池などに「来たときよりも美しく」等と書いた看板を設置して廻った。
今考えると、こんな時から環境や自然保護の意識を持っていたのだと、ちょっと自分に感動してしまう。
サークルには素敵な女性が何人も入ってくれたが、我々男性はみんな「いもけ」だったのか、結局サークルの女性と結婚するものはいなかった。
 

93年5月、子供達と取立山に登った時
避難小屋にその時の看板が残っていて
感激して記念撮影をした
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